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またまた、大島で大災害が起きてしまった。
原因は、2つ。温暖化による桁違いの雨量による水害。
もう一つは、大雨による“危険地帯の見直し作業がなされていないこと”。

前者は、世界的な文明生活による大量のエネルギー消費による「大気や海水の温度上昇」を主なる原因とするもので、今のところ対策に乗り出すことも出来ず、見ていることしかできない理由による“天災”。そして、残念ながら、世界の地政的観点では、日本は最高に大雨の被害を被る位置にある。
後者は、地質学者や防災学者さんに活躍していただかないといけない大仕事。でも、津波に地震にお忙しいので、自分達で作ってしまいましょうか。「大雨警戒ハザードマップ」とでも呼ぶべきものを。災害が起きてから、「あそこは、こうこういう理由で危険なところだった」と解説していただいても、後の祭り。昨今の雨は、記録破りで、殆どの人にとって“経験したことのない雨”なので、「逃げなくても良いか、逃げるべきか“経験的に判断できない”性質を持っている」。その時に有効なのは、“ここは逃げないと危険なのだ”という前もっての注意喚起があるかないかなのだ。これが「大雨警戒ハザードマップ」になると思われる。危険地帯は、概ね簡単に推測が付く。「谷筋が危険なのだ」。土石流は、流れることに関しては水と一緒だ。地盤的には、「地滑り地帯や火山灰地、住宅造成地の盛り土部分など」、この辺は学問的に明確になっている。問題は、自分が今住んでいる土地が、どのような特徴になるのかを知りさえすればよいのである。そうすれば、安全か危険かのおおよその推測は付く。

雨量と川の増水に関しては、幸いなことに誤差の少ない予測が可能なのだ。上流部に降った雨は、土に吸い込んだ一部の部分を除けば、しばらく後には川に流れ込むからである。雨量は、かなり密に設置されているアメダスの情報が利用できる。降った雨水の量は、雨量×雨域の面積×(時間)が基本になり、時間毎の雨の量を足し合わせて計算できる。他方、流れ出す方は、地下に染み込む量、増水し始めるまでの時間差、川のネック部分の時間流量など、日頃から気を付けていれば得られるデータを加味すれば、全部の雨の量から「川のネック部分の排出可能流量」を引き算すると、ネック部から起きて来る「川の水位上昇」が、かなり正確に予測できることになるのである。これは、専門家でなくてもできる作業で、地図を拡げ、対象の川の流域を出し、その面積を求め、雨量を掛ける。雨量は、上下で面積の変わらない容器で、実測も出来る。また雨は降ったが川の水はさほど変化しなかった雨量(染みこむ分)を知り、強い雨で自分の住むところの川は「何分後に増水してきたか」を知り、ネック部の川の断面積を写真で求め、増水したときの流れの速さを測れば(10㍍上流部に目標物を投げ込み、何秒後にネック部を通り過ぎるかをストップウオッチで計ればよい)、いま必要とするようなデータは、少しの努力で自分たちで計測できるのである。

ここまですることはないかも知れない。ナゼなら、避難が先だからである。要は、谷筋が危険で、川のすぐ傍が危険で、川のネック部がある付近に住んでいるのが危険なのである。他方、尾根筋にあっても、宅地造成で岩盤部でなしに「盛り土部分」に住んでいるのが危険なのである。これまで何もなかったことは、「現在・今後の安全を保証しない」。上に述べた危険要素を持って住んでいる人は、避難袋を作る必要がある。そして、明るい内の早めの避難を心掛けたいものである。それが、自分自身の生命を守る行動だからである。

このことを知れば、この先が浮かび上がる。危険地帯にはなるべくなら家を建てないこと、買わないことだ。命が大事なら、不便に耐える。私が、口癖で教えてきたことは、「便利は、コワイ」ということ。携帯電話でも同じである。安全な便利は、歓迎だが、ともすれば便利はコワイになってしまうので用心が要る。

困ったことにデータの上では、「就職できなくて自殺した人」は増えているのだそうだ。でもね、そんな短絡した行為は、止めてくださいよ。これから、「人間としての本当の人生に歩み出そうとしている場面で」、それはないよね。就職の手前で死ねば、「人間の生活」=人生がどんなものか知らずに「元いた世界(あの世)に逆戻りするようなものだ」よ。人生の何たるかを、全く考えていないんだねぇ。折角「この世での使命を決めて、この世に降りてきたのに」、訳も解らずにまたあの世に帰るの?。就職してからが、「人間としての生活の本番なんだよ」。就職するまでは“人生の予行演習”なんだよ。即ち、「他人の役に立ててこその人生」なんだよ。スネかじりの間は、アルバイトなどと称して、仕事をしてお給料を貰って、“似たようなことをしているけれど”、まあ予行演習なんだよ。ということは、社会人として就職して「初めて人間の生活=人生」が始まるんだよ。就職前に「自殺してしまえば、人間の本当の生活を経験しないまま」再び「あの世」に帰ることになってしまうんだよ。
さらに悪いことには、自殺するとスンナリあの世に帰して貰えないようなんだよ。あの世に帰るときには、あの世の入口で審問があるようなのだ。そして、自殺で帰ってきたと解ると、きちんと寿命まで働いてあの世に帰る人とは扱いが違って、すぐにあの世に帰して貰えないらしいんだよ。その理由は、「使命の未達成」のため。

こんなこと知らないのだろうね。聞いたこともないのだろうかね。今流行りのスピリチュアルの研究が進んで、こんな事情が解って来ているんだよ。だから、就職出来ないからと言って、自殺してしまうと“人間としてこれから楽しいこと、苦しいことを体験する機会そのものを自ら否定してしまう”ことになり、人間に生まれた醍醐味を経験せずに、元の木阿弥よりもまだ悪い条件の下で「あの世の周辺をうろついて、その後、あの世に入る許可が出るらしい」んだよ。

苦しくても、人間として「生」を受けたんだから、人生を歩まないとダメなんだよ。解ってくれるかな。

人間の魂は、どの魂も赤ちゃんの体にはいるときに、今生の世界で果たすべき役割(使命)を決めてこの地上に来ているので(達成できないくらいの無理な課題は課さないようになっていて、精一杯努力すれば達成できるはずの課題で今生に来ている。だから死なねばならないような課題には出会わないようになっていると言われている:加筆)、“自分の人生を冷静に眺める気持ちになれば”、短絡的に死に走れないはずなのだが、「周りの人が就職して行くのに“自分は就職が決まらない”と劣等意識なり負け犬根性なりに取り付かれてしまうんだろうね」。これは、正味「客観的に周囲が見えない状況」に自分を追い詰めるから生じる強迫観念の産物だと思われる。

何のことはない。【立ち止まって、ふと我に返れば】死なずに済むんですよ。

冷静になって考えてみましょう。人生、「格好の良いことばかりで終われませんよ」。不細工なこともしでかすし、思わぬ失敗もするものです。「良いことばかりで、人生を全うできる人」。そんな人は、居てたとしても極々例外で、我々凡人の周囲にはまず居ないのではありませんか。そんなことは、若いアナタでも「何となく理解できるのではありませんか」。だったら、自分自身の少々の失敗は、大目に見て許してあげようではありませんか。

こういう心境に成れさえすれば、“自殺する気”は、急速に失せるものです。
結局ね、「自殺してしまう人」は、“格好の良いことばかりで、これまで来た人”なんですよ。「負け組」に入ったことがない人は、精神的に脆いということを自覚しなくてはいけません。でもね、サッカーでも、ゴルフでも、野球でも、実力があってトップに輝けるのは一体どの位の時間なのでしょうかね。トップになったプロも早晩順位は下がり、引退の時が来るのです。そんなように、全人生を見回してみることが出来る人は、【ふと我に返れるはず】なんですがねぇ。

人生で「大成功をする人」は、しばしばスタート時点で厳しい環境にあった人が多いものです。ハングリー精神が、その人の成功を支えていることが多いのです。順風満帆な人生を送ってきた感じの人は、あまり大成功はしません。適当に生活していける程度の生活環境があればよいと考えてしまうからなんでしょう。でも、それでいいのではないですか。それこそよく言うじゃないですか。人それぞれなんですから。

こんな話は、冷静に聞けばアナタも概ね納得するでしょう。だったら、「完全無欠主義」を修正してはどうなんですか。特に日本はありがたい国で、【負け犬になっても手厚くセイフティーネットで守ってくれます。生活保護で食べていけますよ】。人生で負けを知らずに死を迎えられる人は、まず居ないのではないでしょうか。このような人生における大局観を持ち得ていれば、「人より少し後れを取った」というだけで自殺に短絡的に結び付くことはないと思われるんですがねぇ。

また、逆転の発想というものを考えてみましょう。「有名な大企業に入るのが良い」という世間一般の価値観を認めるならば、有名な大企業に入るために必死に努力しなければならないかも知れません。しかし、別の所でも書いたように、事実シャープやバナソニックという大企業も今や下降線を辿っているように思われます。既に、大企業も結構多く倒産しています。本当の有望企業は、今はまだ中小企業でも将来的に有望な商品を持っている企業である場合が多いのです。先見性のある中小企業は、就職先としては最高の企業ということができるのです。世間一般の価値観で言えば、中小企業は就職するに相応しくない企業ということになるのですが、現実に実際は、中小企業こそ“就職するのに最高の企業”なのです。スピード競争では、時間の短い方がトップですが、自転車の遅乗り競争等というものならば、ビリの人が「実はトップ」なのですから、見方・考え方を転換すれば、違った姿・映像が映し出されます。ビリの人が「実はトップ」になっているということは、長いタイムスパンで考えると珍しいことではないのです。私も、最初の就職は、28才だったのですよ、同学年のビリだったのです。遅れに遅れても、60年の人生で考えれば、普通に暮らしているじゃないですか。

世間一般の価値観に縛られることなく、自分の持ち味を生かすべく逆転の発想で考えるくらいの余裕を持って就職戦線に臨めば、何も恐くはありませんよ。その代わり、自分の発想を大事にして、「他人と違う考え方・発想を考え出さねばなりませんよ」。自分の持ち味は、よくよく考え、精一杯努力して、努力の暁に「自分の独自の持ち味というものが、自覚できてくるものと思われるからです」。就職試験は、学力というよりは、自分の持ち味を会社側が評価してくれて、「ご縁が出来て」決まるのです。そう書いてきたでしょう。

決して「死に急いでは成りませぬ」。就職出来なくて悩んで自殺するのは、勝ち癖のある人が、何をはかなんだか急に逆転の発想で、負け犬になって「果てる」ことでしかありません。人生は色々苦労しますが、その苦労をやり過ごして、乗り越えていくところに面白い醍醐味があるのですから、「苦労をやり過ごす手前で」、ジ、エンドを決め込んでは成りませぬ。

若者であっても、それなりの「人生の大局観」は、立ち止まって考えれば解るでしょう。以上の文章を参考にして、早まらないでくださいね。

「人は、ナゼ結婚するのか?」
あなたは、ボンヤリと考えてみたことがあるでしょう。そして、「その鮮明な理由を見出せていませんよね」。ある面、“だから、結婚に踏み切れないのですよ”。

適齢期に達した男女の多くは、この問題をボンヤリと、または何となく考えたことがあるはずです。胸に手を当てないでも思い出せるでしょう。
そうなんです、多くの人は「ボンヤリとは考えたことがあった(過去形で)」のです。私も御多分に漏れず、考えましたよ。そして、私は、比較的早い内(30代)に、ナゼ結婚するかということに結論を出しました。でも晩婚になりました。
私の出した結論、「結婚する理由付け」を知りたいんでしょう。でも、少し待ってください。

考えた軌跡を書いてみますが、これは私の個人的結論ですから、皆さんにも「こう考えろと。無理強いするつもりはありません」ので、どうぞ参考程度に考えてください。

当時の理由は、“普通の人は、みんな結婚して、子供を作り、代々家を継いできているんだから、俺もそうするのがよいのだろう”という思いでした。
私は昔風に言えば、「分家筋の三代目」に成ります。そして、頭の中には、「適齢期になって、適当なお相手が現れたら、“その時は、身を固める時だ”」と宿命というか、自然にというか、そういう考え方になっていました。即ち、人生のどこかで“結婚するものだ”と思っていたのです。実際は、適当な相手が現れず、結婚が遅れましたが、決して独身主義で結婚をためらっていたわけではありません。

30才までには結婚しようかと思っていると、すぐにその年が来て、光陰矢の如しで35才がみるみる来ました。この感じ、実感されている方は多いでしょう。仕事が面白くなってくると、結婚する気があっても、時間だけどんどん過ぎていきます。これがくせ者です。

ここから、「婚活アドバイス」になりますが、
まず最初に結論を出してください。「結婚するのか、しないのかを」。しない人生もあります。でも、この文章を読んでくださっている多くの人は、「昔、結婚しない」と決めた人も、“今は結婚しようかな”という思いが心の底に有るのです。それでいいんじゃないですか。

私は、まだ独身の頃から、教え子達に「別れてもいいから、一度は結婚しろ」と言ってきました。その考え方は、現在も全く変わりません。ということは、私の現在の結論も「失敗だとしても、一遍は結婚しろ」という理屈抜きのものです(現在の理屈は後述)。だから、単純に考えて、「人類は色々な形態で結婚し、子孫を残してきた」事実に注目し、自分自身も単純に「結婚する」と決めればよいのではないですか。

いやはや、この「結婚すると決めること」が大事なのです。別れてもいいから、一度は結婚すると決めれば、“グンと結婚する可能性が高まります”。「適当なお相手探し」に集中できることになるからです(影の声:自分から釣書を書いてお見合いする気持ちになっているのと似た状況になります)。「結婚する」と心が決まっていれば、“どの人とするか”という問題だけのことで、結婚することに対しては迷いがないからです。

昨今「頼りがいのある男が少ない」という声を良く聞きますが、頼りがいがないなら、自分で切り盛りして男に頼らないようにする対策も取れます。但し、こう前向きに考えられるのは、「結婚する」と決めた女性の特権のようなものです。“いい人が居なかったら、結婚しなくても仕方がないわ”と思っている女性には、この考え方の切り替えがなかなか出来ないことになります。選択肢がたくさんあると「迷いますし、決められません」よね。実は、ここの一節、メッチャ大事なことを書いているのですよ。「結婚する」と決めると選択の余地は「結婚相手だけ」になりますが、結婚するかしないかは相手次第と考えていると“相手の長所と短所がそれぞれ選択肢”になりますから、分析すればするほど迷うことになるでしょうね。

解りましたか。「結婚したいと内心で感じているなら」、相手次第で婚活に臨んでもあまり成果が出ませんよ。何よりも大事なことは、「この気持ちの奥には、結婚願望がある」、だから“結婚しよう”と自分自身を方向付けることなのです。即ち、私は「結婚する」と決心することなのです。

男も女も、この地球上に生を受けた限り、「スンナリ人生を歩めれば」適当に人に巡り会って結婚し、“苦労と我慢抜きでは過ごせない結婚生活というものを経験する必要がある”のです。その苦労をする中から、「子を育ててみて解る親の恩」といった諺の重みが解ってくるのです。自分が育てられている時、殆ど気にも止めていないようなことでも、「親はこんなに苦労していたんだなぁ」ということが、やっと解るから面白いものなのです。子育ては、苦労も多いけれど、人生や結婚というものの現実を学ぶには最高の現場ですね。結婚生活は、「人生修行」そのものです。結婚して「人間が練られる」のでしょう。

それと私の今風の理由付けを少し。
それは、「命懸けの鮭の遡上」の様子を重く眺めることで、しみじみと感じ入ることが出来ました。その顛末を少しご紹介しましょう。

鮭は、数年後に、自分の生まれた川に産卵のために戻ってきます。その姿は、ほぼ毎年テレビのニュースとして、ドキュメントとして放送されています。多分誰もが見て知っている映像でしょう。雌鮭は、腹一杯に卵を抱え、雄鮭は精子を貯めて、急流をものともせずに遡上します。途中の水や石との格闘の結果、産卵場所に着いた頃には、尾びれが激しく傷付いて痛んでいます。それにも関わらず、休むヒマもなく、水流の穏やかな産卵場を探し出すと、雄は雌を産卵に誘い、必死の思いで、雄は精子を振りかけます。

そして、鮭の場合、雄も雌も、産卵後生命を断ちます。即ち、必死の思いで、次の世代に命を繋ぐわけです。命を繋ぐことの重さを感じさせられます。

結婚して、次の生命が生まれることは、とても神聖で限りなくありがたいことだと思わせられています。

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