曖昧な用語FDの意味を明確にしないと

フロッピーディスクならぬ「FD」という用語で、主として大学での授業改善が議論されてから、かれこれ15年になろうとしている。そしてこの間、FD活動は、盛り上がったのか、盛り上がったと言えない程度に続いてきたのか、決めかねるところだが、省令として大学院でFD活動を義務化された今、気分としては「中だるみ」状態にあるように感じられる。では、ナゼそうなのか。この辺りの原因究明をしっかりしておく必要性を感じるのは私だけだろうか。
その辺のことに関して、私見を披露してみようと思う。独断と偏見が混じると思われるが、参考にしていただけるなら幸いである。

パソコンのフロッピーディスクの時代は過ぎつつあり、FDは大学関係者にFaculty Development の略称だと認知されつつあると思われるが、FD活動に自発的に参加する大学教職員は、そう増えていないのが現状ではないだろうか。多くの大学では、活動の裾野が広がらないのが現実の姿のように見受けられる。それはナゼなのか。
ストレートに言って、現在使われているFDという言葉のイメージが「胡散臭い」のではないだろうか。直感的に「どうも信用できない」という感じを与えているように思われる。それもそのはずで、FDという用語が米国直輸入の言葉として入ってきた頃のFD活動は、“大学の学問研究の質を上げなくてはならない”とか“解り易く教える努力をしなくてはいけない”と個人的に切実に思われていた先生方が活動の中心メンバーだった。これらの先生方にとって、FDと自らの学問研究への指向性は、ごく自然に一致していたため、「米国のFD活動」は、自分自身に大いに参考になったわけで、“違和感無く、スンナリと受け入れられた”わけである。

近年FD活動を始められた先生方も、この辺の情況を確と頭に留めていただきたい。即ち、初期の頃から活動された先生方は、平教員・管理職という立場を越えて、「教えるということに関して、より上手に教えたい」という共通の関心を持たれていたと言って良いと思う。即ち、当初のFD活動のベースは、「授業改善」に有ったわけである。ここの原点をしっかり覚えていて欲しい。

「FD の活動が始まった当初は、FDという物珍しい英語名の略称で呼ばれた活動も、内容的には“個々人の次元で授業改善する活動”であるという共通認識が自然と成立していたわけで、その時点では馴れない名前という以外には、さしたる違和感もなしにFD活動が議論されていったのであった。そして時を経て、現在に至って、義務化されてきて却って「ぎくしゃくしてきた」ようなのである。その根本的原因は、「FD」という言葉の持つ意味が多義化して来たためだと思われる。
今春の京大での「大学教育研究フォーラム」では、「FDの効果測定の云々」という問題まで論じられるようになり、私は、強い違和感を感じた。「FDの効果」ってどんなもの?、その時に使った用語としての「FD」は、果たしてどんな意味で用いられているのか?。そもそも定義されていない対象の何かを測定して論じようというのである。(この問題点を論じようとされる立場の人の狙いは推測できるが)「学生による授業評価の得点」を根拠に、数値の大小変化から(でも)「FDの効果」というものを数値で実証しようというのである。どこまで信憑性のある数値か不明の上に、さらなる統計処理を施して「何なりかの数値変化を導き出して」、“FD活動によって、こんな効果が出ました”と結論付けようというのである。これは、本当のところ「無茶ですよ」。「学生による授業評価」の多くの場合のデータで信憑性が疑問視されてきている流れの中で、このような強引な研究は無いでしょう。
こんな研究手法を認めていくならば、“ますますFDという用語の曖昧性が増し、いい加減さを内外に印象付けてしまうのではないでしようか”。この事例は、現在のFD研究の内包している問題点を端的に描き出してくれたように思われる。このような無限定な意味の膨張を許しているなら、「日本のFD」は早晩信用されなくなるでしょう。このようなFD研究の危険な体質を厳しく反省すると共に、「今正にしなければならない仕事」が見えてきたと申せましょう。
それは、「今、日本で普通に使われているFDという用語に、どのような意味を持たせるかを」関係者で検討し、出来るならば誤解のないような日本語表現での意味を確定し、広く広報すると同時に、“実のある議論が出来る環境”を作り出すことでしょう。そのために、私は、ここで一つの提案を試みることにする。

 ①「日本語のFD」には、明確に二つの意味がある。その1は、「個人レベルの問題として、授業改善に取り組む活動」であり、その2は、「大学等の組織的レベルの問題として、学問研究及び教育の質的向上に向けた(教育改善)活動」である
②「タイトル・看板以外ではFDという呼び方を使わない」。今や広まったFDという言葉であるが、内容の議論では使わないようにする

即ち、何を意味しているか不明になってしまった「FD」という用語に対して、2つの意味を持たせるということである。意味1は「(個人レベルでの)授業改善活動」、意味2は「組織的な教育改善活動」となる。これで何も困ることはないと思われるが、如何であろう。
こう約束するだけで、大きいメリットが得られる。FDに二つの側面があったことが、明示的に示されること。そして、授業改善は、元来個々人の教員が取り組む課題であり、それに対して組織的に取り組む活動を「教育改善活動」と呼び分けると、合理的で且つ便利だと思われるが、如何なものだろう。

−− 以上 −−

日下教育研究所 所長 日下 和信

投稿日 2009.3.23

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