原発問題の解説

はじめに
私は、物理学を学んだ一人として、また奇しき縁があり、一般人より多少原子力に、興味関心を寄せてきました。それで、大阪の地より、福島原発の推移を固唾を飲んで見守っています。何とか、この辺りの被害で収束して欲しいものです。

阪神淡路大震災の時は、「村山首相」、今度は「菅首相」。よりにもよって大災害が起きるときに「わけの解らんダメ首相」が総理で、迅速・的確に対処できなくて被害を「うんと大きくしてしまった」感じがします。やりきれない思いです。また「行って何の役にも立てないのに、事故直後の原発を見に行く」。そして、その後は国民向けに会見を一度すれど、あとは「隠れるばかりで何を考えているのやら」。即刻辞任して代わって欲しいところだが、首相の交代は手続きが要って厄介なため「代わって貰うこともできない」。おおー、国民の「この踏んだり蹴ったり」付いてないこと。天皇は、キッチリと国民に忍耐と励ましのお言葉をテレビを通じて発せられた。これのみが救いか。

◎福島原発で「どんなことが起きてしまったのか」

切っ掛けはマグニチュード9.0という東北太平洋大地震であれども、福島原発が震度7の激しい揺れに襲われ、さらに大津波に襲われ、原子炉の正常な停止措置が実行出来なくなり、本来なら空気中に出してはならない放射性物質の大量放出となってしまったのです。原子炉はガソリンエンジンのようにスイッチを切れば、それまででスンナリ止まってくれる代物ではないのです。大量の熱を発生させている原子核反応は、緊急停止させ得たとしても「燃え残りにも似た」比較的大量の熱が引き続き出て来るのです。そのため、原子炉の正常な停止措置においては、発電用に熱を取り出している出口とは別に、緊急に炉心を冷やすための設備が必ず設けられているのです。その装置が地震直後には動いたようですが、津波に襲われて「炉心冷却が出来なくなり」、炉心の空焚きに至ってしまったのでした(対応のミスが幾つも想像されるが、それはもう少し事態が収まってから議論されるでしょう。今は省略)。その後も的確に対応できず、モタモタする内に冷却水が無くなり、燃料棒が熱で高温になり、四分の1共半分とも言われる燃料棒が崩れだして炉心の底に落ちて集まってしまったと想像できるのです。その結果、炉心は発熱で温度が上がり、炉内の圧力は設計限界に近付くまでの事態になっていきました。その後、炉内に水素が貯まり、処理に手間取っている内に爆発して、建屋の上部が吹っ飛ばされてしまったのです。この辺りは、テレビでも放映されたので映像的にはどなたもご存知のところと思われます。
この辺から、「もう正常な停止措置は施せない状態で」、“原子炉事故”が隠せない事実となってきたわけです。爆発に伴い灰色の煙が上り、異常さの程度が誰の目にも解ったことでしょう。あの煙で大量の放射性物質を空気中に、排水からは海水中に放出してしまったのです。悪いことは重なるもので、定期点検で発電を休んでいたはずの原発の建物内部に「冷やし続ける必要のある“大量の使用済み核燃料(内部に大量の放射性物質を含んでいる)”が保存されていた」のです。

◎原子力の凄さとは

原子力発電は、発電する部分そのものは「火力発電と同じ仕組みで電気を起こします」。ただ大きく違うところは、「熱源」です。火力発電では、概ね石油か石炭ですが「その熱源を原子力に求めた」というところが決定的に違います。そして、原子力で熱を発生させるという非常に高度で微妙なことを、複雑なシステムを組み合わせて実現させたのが原子炉なのです。
そこでですが、「熱源を原子力に求めた」と言葉でスンナリ済ませてしまえるほど、それは簡単なことではないのです。手始めに「原子力エネルギー」と呼ばれるものについて考えていきましょう。それは、別の呼び方では、「核エネルギー」と呼ばれ、「原爆・水爆」の膨大なエネルギーを取り出す仕組みに関わってくるのです。核エネルギーは、戦後間もなくノーベル賞を貰われた湯川秀樹先生の研究で予言された「中間子」に関わってくるのです。詳細はここでは省略しますが(後述)、そのエネルギーの要点は、「原子核の内部に存在するスゴク強烈な“核力”と呼ばれる力に依存しているものなのです。その凄さを象徴的に表現すれば、「化学エネルギーの百万倍」に当たるのです。(化学エネルギーとは、我々の身近では、原子力エネルギーを除くエネルギーの殆ど全てです。通常火薬のエネルギーも電気エネルギーも、みな化学エネルギーの仲間です)。そしてその凄さは、よく使われる例で書けば、ウラン235(核エネルギーの燃料に当たる物)の1㎏から取り出せるエネルギーと同じエネルギーを石炭から得ようとすれば、3000トンになります。30トンの貨車100両分になるというのです。ウラン1㎏は鉛1㎏よりも体積では小さいので、掌に小餅を乗せた程度の体積になります。小餅1個と貨車100両なのです。この想像を超える比率を想像して欲しいのです。その凄まじさにこそ、原子力問題の背後の複雑さ巨大さが垣間見えるのです。

◎「先ずは、火力発電の話から」

発電所の種類としては「水力・火力(石炭・石油等・ガス)・原子力・その他のエネルギーから(太陽光線・風等)」があります。我々が日常使っている「電気」は、正確にはエネルギーの形態をしていて、それを正しく言えば「電気エネルギー」と呼ぶことになります。そして、常識的には「エネルギー」は、別の姿形をした「エネルギー」から変換して、違う姿形のエネルギーにします(エネルギーの変換)。
その意味では、火力発電は「石油や石炭等が内部に持っている化学的エネルギーを空気中の酸素と化合させて燃やし、その酸化反応から変換されて出て来る熱エネルギーをさらに電気エネルギーに変換する事によって」、電気エネルギーを作り出しています。即ち、エネルギーの姿形は3回変わって電気エネルギーに成っているというわけです。
単純に言えば、火力発電は、石油等を燃やして、熱エネルギーを出させて、それを電気エネルギーに変換して、電気を作っているということです。そして、原子力発電は、石油の代わりにウラン・プルトニウム等の核燃料を「核反応させて」熱を出させて、後は火力発電とほぼ同じシステムを用いて発電しているのです。即ち、熱源を石油等から「原子力由来の熱」にしたと言うことです(詳細は後述)。

次は「水の沸騰と圧力」のことです。よく知られている知識としては、「富士山等の高地では、水は100℃よりもかなり低い温度で沸騰する」ということです。そのために山で美味しいご飯を炊くためには、「圧力鍋」が必要になります。高い山でも、鍋の中に圧力を掛けてやれば、水の沸騰温度を地上と同じに出来るか、さらに高くできる可能性があるのです。この話を聞けば、想像が付くでしょう。地上でも圧力鍋で調理をすると短時間でよく煮えますね。あれは、鍋の中の温度を上げて煮炊きの効率を上げたためです。もうお解りのように、もっと圧力を掛けると水の沸騰温度がもっと上げられるということです。
ここが大事なポイントのひとつなのですが、マスコミなどでは殆ど説明されないところです。圧力は発電に関しても、非常に大事な条件に成ってきます。それは、「熱効率」という考え方が関係して来るからです。熱効率とは、同じ燃料を使いながら、その燃料を如何に有効に使い切るかという考え方に根ざしています。その考え方から出て来る結論を簡単に示しますと、「高温の状態になるように燃料を用いた方が、熱効率が高くなる」という法則があるのです。即ち、「100℃の水蒸気で発電するよりも、150℃の水蒸気で発電する方が、同じ燃料を使っても、多くの電力を作り出すことが出来る」ということになるのです。現在では、日本の火力発電の技術では、240気圧を超えて、540℃の水蒸気で発電している位なのです。(臨界圧発電なり超臨界圧発電と呼ばれます)この時の水蒸気は、水より重い密度になります。(液体の水より重い気体が出来ているのです)。火力発電では、既に超臨界圧発電が実用化されていて、高熱効率発電で省エネが追求されているわけです。

○圧力容器の圧力を高くするのも難しい

原子力発電も仕組み上は火力発電と同じということからすれば、原子力発電においても高い圧力をかけて、高温の水蒸気で発電することのメリットは明白です。それはそうですが、原子力発電には実際上、そのような高圧下での発電が難しい事情があるのです。
ナゼなら、原子炉では緊急運転停止のような事態に対して、「核反応を無事止めたにしても、燃料棒の予熱を取り出すために“炉心冷却”を直ちに始める必要性があるためです」。実はこう書いただけではピンと来ないでしょう。それは炉心冷却の困難さを書いていないからです。単純に考えると「冷やすためには冷たい水を炉心に注ぎ込むと一件落着です」。それは正しいのですが、注ぎ込むには大変な条件に打ち克つ必要があるのです。ナゼなら、「炉心は水の沸騰温度を上げるために高圧状態に成っています」。その炉心に注水するには、「注ぎ込む水に炉心の圧力よりも“さらに高い圧力を掛けて押し出す必要が生じる”からです」。(膨らんだ風船を更に膨らませる時を考えてください)。特別な高圧ポンプがなければ、炉心に注水できないのです。大量の水を高圧にして炉心に注ぎ込むというのは、技術的にかなり高い要求になります。水蒸気を高温にしたいわ、冷却水を高圧にするのは難しいわ、「緊急炉心冷却」のためには二律背反の事情が出来てくるわけです。この事情から、原子炉の沸騰温度は、その時点での技術的なバランスを取って決められると言うことになります。初期の原子炉ほど、圧力は低いと言えます。

◎「原子核エネルギー」を人工的にコントロールするまで

ここから新しい熱源である「原子力エネルギー」のことを考えましょう。
日本では、「原子力エネルギー」という呼び名が定着していますが、「力の由来からしますと“原子核エネルギー”が本来の名称」になります。略称すると「核エネルギー」になります。それはナゼかと言えば、このエネルギーは、「原子核に由来するエネルギー」だからです。原子力と呼んだとして日本語として意味を検討しますと、「原子に由来する力」と言うことになり、これならば実質的に「化学エネルギー」を表す名称に成ってしまうでしょう。だから正しくは「核エネルギー」なのです。そう呼ばれる理由は、力の源泉が「核力」と呼ばれる奇妙で強力な力に由来しているからです。「核力」は、原子の外周に居る電子に由来する力ではなく、原子の中心部に位置する「原子核」を成立させている力の根源だからです。核力は「壊れやすく見える原子核を、何とか存在させている超強力な接着剤のような力」なのです。

「核力」の説明に入る前提として、関連する次の言葉を知ってください。「原子」「原子核」「陽子」「中性子」「電子」及び「電気的な力の作用」について、解説しましょう。
「原子」は、中学校の理科以来、言葉としては良く聞くし、化学反応の反応式や分子式などの図解で示された「水兵さん、リーベ〜」と覚えたあの周期表に書かれていた「集合体としての元素」の1個1個のものを原子と言っています。1個の大きさは最高性能の電子顕微鏡でようやく点程度に見える位の最小の物的な塊になります。直径はÅ(オングストローム=0.1nmナノ㍍)程度の大きさです。勿論、肉眼では見えません。原子は、1個1個そのぐらいの小ささで、尚かつ、化学反応で色々な原子が相互に結合し合っているのです。身近なところに存在する「物」は、全て多数の原子が集合したものです。

原子の素顔が解ったら、次は「原子1個1個に共通する構造」を考えましょう。この話もかなりたくさんの人が勉強していると思われますが、きちんと理解している人は少ないでしょう。「原子」は、中心部にプラス電気を持つ「原子核」と周囲を回っているマイナス電気を持つ「電子」で出来ています。電子は、中心部のプラス電気から受ける電気的引力で引かれながらぐるぐる回っていると考えています。このことは化学の勉強の折り、中心に○の中に+を書き(原子核の意味)、その周囲に円周を書いてその上に幾つかの○に−(電子の意味)を書いてきたでしょう。これが原子のイメージです。
このイメージをより現実化しましょう。そこで原子の実際の大きさを考えると、またまたアッとビックリしますよ。原子の実際の大きさは、電子達の軌道の外周で表して数Å(オングストローム:注上)なのですが、中心にでんと腰を下ろしている「原子核」が、原子全体の重さのほぼ全てを担いながら「その直径」は、外周の10万分の一だというのです(外周を甲子園球場250mに採ると原子核の直径は2.5㍉)。そんな大小関係だというのです。原子の実体は、広い広い外枠で囲まれていながら、中心部は並の観察力では見付けられないほど小さな原子核を持っているだけなのです。原子の大きさが、もう十分小さいのに、原子核はさらにウンと小さいというのです。そして、そのウンと小さい原子核がこれからの話の主役だから、過去の常識からすれば、ウンと非常識なわけなのです。

そのウンと小さい小さい微小片には謎が一杯です。そして従来の頭では考えられなかった驚異的なパワーを秘めているです。それが「原子核エネルギー」であり、それを力として表現すると、原子核の力即ち「核力」となるのです。
「原子核」とは、どんなものか概観を見ていきましょう。「原子核」を構成している主要な要素は、「陽子」「中性子」という原子核よりも更に小さい微粒子です。ナゼなら、それらは原子核の構成要素だというわけですから。だから、陽子や中性子は、「素粒子(物を構成する最小の粒子)」と呼ばれてきました。(現在では、陽子や中性子等の素粒子が、更に小さな6種類のクオークという粒子の3つが組み合わさって出来ているとされています)
それらの粒子が、原子核を構成しているわけです。

「陽子」について考えましょう。
陽子は、原子核を構成する大事な構成要素で、しかもプラス電気を持っています。そして、その原子核に陽子が幾つ有るかで、その原子の化学的性質が決まってしまいます。そのため、陽子の個数に応じて原子の名前(元素名)が付けられています。陽子が一つで原子核を構成している元素が「水素」で、陽子二つのものが「ヘリウム」となります。この陽子の数は、「原子番号」とも呼ばれます。だから、原子番号の数だけの陽子がその原子の原子核の中にあるということでもあります。
次に「中性子」ですが、大きさ・重さ等は殆ど陽子と同じですが、決定的に違うのが「電気的に中性」であるところです。中性子(陽子が電子一つを取り込んだ状態と考えられています)は、電気的に中性なので「電気的な力の作用を受けません」、そのため、何処にでも行けるので行動の自由度は抜群です。

この陽子と中性子の混成体が「原子核」だということです。例えば、陽子一つだけの水素、通常の水素:記号H・陽子一つと中性子一つ、デューテリウム:D・陽子一つと中性子二つ、トリチューム:T。後二つを通常の水素より重いので「重水素」と呼んでいます。水素の場合、陽子1個の中に中性子が幾つ入ろうが問題に成りませんが、問題は、陽子が2個以上に成ったときに生じます。即ち、ヘリウム以上の原子核で起きてきます。何が問題に成るのでしょう。

陽子は、それぞれプラス電気を持っています。2つのプラス電気が傍に在れば、陽子の相互にどのような作用が生じるかが問題なのです。
このような場面での作用を考える場合、「電磁相互作用」と呼ばれる作用が、陽子の相互間に働きます。それは「電気的な力の関係」になります。電気は、プラス電気とマイナス電気という二つの極性を持っています。そして、プラスとマイナスの異極同士は引き合い、プラスプラス・マイナスマイナスの同極間では、反発し合うという性質を持っています。そして、陽子はどれも+ですから、2つの陽子間に働く力は、距離の逆2乗則(二つの電気の離れている距離に関して、
距離の2乗に反比例する: F∝e・e’/r )で作用します。この場合は、+同士の電気が極々近くに存在することになり(rが原子核内の距離というウンと小さな値で、その二乗なので分母がウンとゼロに近くなり、結果的に力は膨大なものになる)、近ければ近いほどうんと大きな反発力が作用することになります。理論的な推測からは、原子核内の「陽子間には猛烈な反発力が働くはずで」、そのような強烈な反発力を受けながらも、複数個の陽子が原子核の内部にデンと存在出来ていることになるわけです。これが不思議な大問題なのです。そのような強力な反発力を受けながらも、どうして澄ました顔で陽子同士が仲良く「近くで存在出来ているのか」が、これまでの知識では、説明出来ないわけです。
これは常識的には、とても不思議な状況と言えます。しかし「事実としては、原子核の中で陽子が超近接して存在出来ている」と結論するしかありません。事実が正しいのですから。ということは、“電気的な力よりも更に強力な何らかの力が、陽子間を強力に引き付けていると考えるしか理解の方法がなくなります”。

○「核力」という怪力の仕組み

原子核の内部では、超強力な力が「陽子間を引き付けているはずなのです」。今ではこの正体(核力)が知られていますが、この強力な引力を説明することは大変な難問でした。この難問に挑んで「その力の理論的予言を行ったのが我が国初のノーベル賞に輝いた湯川秀樹博士でした」湯川先生は、陽子間を強力に引き付ける仕掛けとして「中性子が関係していると見抜き、陽子と中性子の間で何か強力に引き合う力が働いているはずだ」と考えました。そして理論計算で“陽子と中性子の間で電子質量の数100倍くらいの重さの粒子「中間子」(陽子・中性子は電子質量の約1800倍。その中間ということで中間子と呼んだ)が受け渡しされている”と考えれば、この強力な引力の説明が付くと提示したのでした(湯川秀樹の「中間子論」と呼ばれる論文)。中間子が陽子と中性子の間でキャッチボールをするように投げ合われているイメージだったので、別名「キャッチボール理論」とも呼ばれました。この予言の論文発表の後、中間子に当たる物が実験の中から実際に見つかり、理論の正しさが証明されたため、ノーベル賞が授与されたのでした。「陽子と中性子の間を強力に引き付けることで、結果的に陽子同士を強力に引き付ける仕組み」が明確にされたわけです。これで、陽子同士が原子核の内部で共存できることが説明されたのでした。この引き付ける力のことを「核力」(原子核を形成している源の力)と呼ぶわけです。湯川先生は、「核力」の働くメカニズムを解明されたということです。
「核力」の実際が解ってきたわけですが、この核力には他面で「極々短い距離でしか働かない」性質があることが解ってきました。精々、陽子と中性子を混ぜて250個位の球の直径位の範囲でしか働かないのです。それ以上距離が離れると引き付ける力が急速に弱くなり引き付ける作用をしなくなるのです。(陽子と中性子の数の合計を「質量数」と呼びます)そのため、人工的に作った原子を含めても、質量数250程度の原子核が、核を構成する限界になります。

核力がいくら強力なものだとは言え、同様に電気的な力も強力ですから、原子核内の「核力」と「電気的な力」のバランスは、微妙なものになります十分に強い核力で引き付けられている原子核は、多少の刺激があっても強く結合を保っていますが、両者の力が拮抗してきた場合、引力と斥力のバランスが、本当に微妙に成ってきます。このようなバランスが微妙な状態の原子核は、少しの刺激を受けても、原子核を正常に保てなくなることがあります。このような状態にある原子核は、不安定なわけです。この不安定さは、陽子の数と中性子の数によって起こります。ウランで言えば、質量数238の物は、安定で、質量数235の物は不安定になります。即ち、ウランは陽子の数が92個で、質量数から陽子数を引いた残りが中性子の数になるから、(235-92=143)中性子の数が143個の原子核が不安定で、3個多い146個の物は安定な核ということになります。

◎核分裂と核エネルギー

不安定状態の原子核は、原子核に何かの刺激が入ると核内の陽子と中性子の並びに変動が起き、その影響のために「核力での引き付けが電気的斥力に負ける一瞬が有り得ます」。その一瞬が生じたなら、その原子核は果たしてどうなるでしょうか。想像が付くと思われますが、その一瞬、電気的斥力が勝って、原子核は強力な力で引き離されることになり、元の原子核は、ほぼ二つに割れて、その破片等が高速で飛び出してくることになります。(強力な電気的斥力で互いにはじき飛ばされて出て来る原子核の破片は、非常な高速で飛び出し、付近の燃料棒等の原子等にぶつかり最終的には止められるわけですが、この間に運動体として持っていた「運動エネルギー」が熱エネルギーに変換されて出て来ることになります。原子炉の熱の半分くらいがこのメカニズムで生じる)この現象が「核分裂」になります。原子核がまさに分裂するのです即ち、不安定な原子核は、何かの刺激で核分裂を起こすということです。
この場合、原子核に対する刺激としては、どのようなものが考えられるかを考えてみましょう。大きな原子全体への刺激ではありません。極々小さな原子核への刺激ですから、極微粒子の衝突のようなものが想定されます。陽子か中性子か電子か中間子かといった仲間のぶつかってくる状況が有力でしょう。その内、陽子は、原子核のプラスの電気のために電気的にはね飛ばされて核内まで到達できないと思われます、また電子は核内に入り込めたとしても軽すぎて陽子に吸い取られて終わりになるのがオチのように思われます。中間子もやはり軽すぎるようです。そうすると残るは「中性子」が有力になります。
実際に中性子の攪乱が、原子核を更に不安定にするのです。中性子は電気的なバリアーに影響されません。だから進みたい方向にスイスイ進むことが出来ます。だから核内の陽子や中性子にマトモにぶつかることが出来ます。そして、ぶつかれば、重さが同じだから、内部の陽子や中性子を強くはじき飛ばすことが出来て、その刺激で不安定ながらようやく維持している原子核内の秩序を壊してしまいます。即ち、原子核内の秩序の攪乱には、「中性子の侵入」が効果的だと考えられるのです。
実際に不安定な核を刺激するには中性子が好都合だったのです。それも、非常に高速で飛んでいる中性子よりも、少し速度を落とした中性子の方が、原子核への働きかけが有効であったのです。

この辺までの知識が集まってくると「不安定な原子核に中性子を利用して、核内を攪乱してみようか」と人間は何かと考えるものです。そうすると「人工的に核分裂」を起こさせるアイデアが出て来てしまいます頭の良い人が、こういうアイデアを得てしまうと、その先がスウッと見えてしまうようなのです。(この考え方が進行するのに併行してアインシュタインの提唱した「相対性理論」が、「物質の質量とエネルギーは、等価である(E=mC)」という有名で且つとんでもない考え方が出されていました:省略)
この「核分裂反応」は、実験的に試みることが可能でした。そして、中性子の刺激でウラン235が分裂する事が、確かめられたのです。実験では、標的として置く「不安定な原子核の少量の試料に中性子を当てる」というやり方を採りますから、核分裂の現象が確認できるのは中性子を当てた時だけですが、この程度の小規模な実験で得られるエネルギーでは、残念ながら実用性はありません。原子1個の反応で巨大なエネルギーが出ていることは解っても、しょせん実験室で得られる程度のエネルギー量なのです。

身近な化学反応においても「個々の原子が時々反応している程度では、実用上のエネルギーの量に達しません」。化学反応においても、木材や石油の分子・原子が次々に燃えていって焚き火や煮炊きが出来ているのです。いくら強力な核反応だと言っても、反応を連続させることが出来なければ「実用的なエネルギー」にはなり得ないのです。
単発的な反応では実用上役に立たず、反応を連続的に起こせなくては大きなパワーを作り出せないのです。実用的なエネルギーにするためには、「反応を連続させる必要がある」のです将棋倒しのイメージで、次々と反応が引き起こされる仕組みがないと利用価値が出てこないのです。連続的に反応が起きることを「連鎖反応が起きる」と言います。
核分裂反応でも「連鎖反応」が起こせるかどうかが、実用上のエネルギーとして使えるかどうかの大きな分岐点になります。そうすると又もや幸いと言うべきか不幸と言うべきか、「不安定な原子核の核分裂を連続的に起こさせる条件が見出されてしまったのです」。もう少し大がかりな設備を作り出すと「この核分裂反応を連続させることが出来ることが解ってきます」。それはどういうことかと言えば、「初めの中性子を不安定な原子核の刺激材として使ってしまった後に、“新たな中性子”が核分裂の副産物として出て来るから」なのです。それはナゼかと言えば、「原子核は、そもそも陽子と中性子(それと中間子)という微粒子」で出来ているからです。即ち、中性子は、様々な原子核の中に一杯在るからです。だから、原子核が分裂すると「多くの場合バラバラになった中性子がさまよい出て来る」のです。具体的にウラン235では、核が一つ分裂する毎に約3個新たな中性子が飛び出してくるのです。
最初の中性子が、核分裂を誘発させると、その分裂の結果また中性子が補給されるという循環する条件が満たされてしまったので、理論的に連鎖反応を起こせることが証明されてしまったのです。
この辺の事実が解ってしまうと、残念ながら「原子核爆弾のアイデア」までは一本筋です。不安定なウラン235を主成分にした金属体(元素のウランは元々金属)を必要な分だけ集めれば、中性子の刺激とともに大爆発する核爆弾が考えられるのです。皮肉なことに、実験では中性子を発生させる装置を必要としたのですが、核爆弾ではその装置を作る必要もなかったのです。火薬を用いた通常爆弾でさえも、起爆装置は必要なのですが、核爆弾では、特別な起爆装置は必要無かったのです。中性子をわざわざ作り出して原子核にぶつける仕組みそのものが不要だったのです。それはナゼか。ウラン235からは少量とはいえ、常時中性子が飛び出していたからです。中性子を作り出すよりも大事な問題は、常に飛び出している中性子が「本当の爆発を起こさないようにすること」の方だったのです。だから、核爆弾の構造は「保管中は連鎖反応が起きないような条件に保ちつつ、合体させると連鎖反応の起きる条件に作ること」だったのです。即ち、爆発する(連鎖反応が起きる)条件になる十分な量のウラン235を“安全な距離、離しておいて”、爆発させる瞬間に一機に合体させるように作ってあるはずです。合体させれば瞬間的に1個の核が分裂し、凄まじい速さで後は3倍3倍のペースで分裂する原子核の数が増えていき、広島・長崎で炸裂した光景になるわけです。

◎核エネルギーの生活的利用法=原子炉

核分裂を3倍3倍のペースで増やしていくと出て来る熱エネルギーは大量過ぎて爆発現象になるしかありません。とても人為的なコントロールは出来ません。まさに爆弾として使うしか方法がありません。それでは生活的利用になりません。それでは核エネルギーは、どのようにすれば生活的利用が可能になるのでしょう。
その答が「原子炉」です。
原子炉は、核分裂の連鎖反応を調節して、「必要とする熱エネルギー量の分だけ」核分裂を起こさせるように調節出来るように作られましたその考え方は、「核分裂に伴って出て来る新たな中性子をどの程度、次の核分裂に利用するかをコントロールしよう」というのです。解り易く言えば、「たくさん出て来る中性子を吸い取ってしまって、必要な分だけ炉内に残すように調節する」という方法です。原子炉には、燃料棒と制御棒が規則正しく並べて設置されているわけですが、その制御棒の働きは、「多すぎる中性子を吸収して続く核分裂量を決めている」わけです。原子炉の運転・制御というのは、そういう調節をしているのです。核分裂反応は、化学反応の反応速度よりも速く、中性子の数が少し多くなると急速に核分裂が増すため、コントロールは微妙になります。だから1回の核分裂から中性子1個残ればよい条件にコントロールするのが分裂を一定にする条件で安全運転になります。理屈から言えば、原子炉の熱出力は、時々の必要な量に調節可能ですが、日本の原発では、大概「定速(発熱量一定)運転」をしていると聞いています。そのために「夜に電気が余るようで、夜間電力を安く販売しています」。

原子力発電に関する説明は、ここで終わります。

投稿日 2011.4.1

◎にわかに騒がれ出した「放射性物質」とは

原発の事故以来、「放射性物質、放射性物質と新聞でテレビで聞かない日がないくらいに出て来る言葉になりました」。しかし新聞やテレビ等で、かなりいい加減な説明がされていて、放射性物質というものがどんなもので、どのようなメカニズムで人体に害を及ぼすのかといったところがきちんと説明されていませんので、ここは初めに言葉の定義みたいなものから始めまして、正確を期したいと思います。
まず「放射性物質」とは、その物質から「放射線が出ている物質」と言えます。だから「放射性」とは、“放射線を出してくる性質”という意味になります。それでは、そこから出て来る「放射線」とは、どんなものなのだ?と話が展開すること必定ですね。厄介なのはそこなのです。この放射線が直接目に見えないのです。だから余計に危険を感じてしまうようです。しかし、微量の放射線は、我々の体からも出ているのです。そんなことを言えば、我々の体が放射性物質だと言うことになってしまいます。だから、ここでは原子力発電所から出てしまった放射性物質に限定して話を進めましょう。
「放射性物質」を考えるポイントが二つあります。その一は、物質という名前が付くように、放射性のあるなしを抜きにすると「物としては、見かけも存在の様子も“普通の物”と同じです。物としての扱いは、通常の物として扱えばよろしい(但し、強い放射能を持っている時は、直接触らない)」。二つめは、「見かけは普通の物と変わらないけれど、目に見えない放射線を自然に出していて、その放射線が人体に“ワルサをする”ということ」。この二点がポイントです。

◎原発事故と放射性物質の繋がり

テレビでも見られたでしょうが、発電所から灰色の煙が上がりました。あの煙の正体は、水滴も含んで放射性物質の微粒子です煙に見えるものは、大概の場合微粒子の集まりです。あの煙の微粒子が風に乗って運ばれるわけです。大規模な放出の時はたまたま北風で海側に飛ばされたのが、日本にとっては幸いしました。北風で避難所は寒くて大変でしたが、地上部分の放射能汚染は随分軽減されたのも事実なのです(昼間はしばしば海風で陸側に吹きますが)。微粒子にも、比較的粒の大きいものから小さいものまで、色々あります。そして粒子の大きさによって、振る舞いが違ってきます。粒子が大きいものほど重くて地上に早く落下します(原発の近くに落ちることになる)。小さいタバコの煙くらいの微粒子(直径1ミクロン:百万分の1㍍)くらいになると、なかなか落ちてこなくて、地球を回ってしまうくらいになります(地上に落下するのに1年くらい掛かる。ただ、微粒子だからその分、量的には少なく汚染の点では軽微で済むが)。この場合、外国にも迷惑を掛けてしまいます。
原発より20㌔以内が避難地域や30㌔以内が屋内退避が指示されているのは、微粒子のこのような性質を考慮した結果として、住民が強い放射線を受けないようにという配慮と言えます。しかし、30㌔圏外でも飯舘村では、地形的に風筋に当たり放射性物質の降下量が多いようで、単純に距離だけで放射性物質の飛散状態を議論するわけにはいきません。
放射性物質への対策として「花粉症」のような対策をすればよいと言われていますが、それは、「花粉も微粒子だ」ということです。マスクを付けるのが有効だし、家の中に持ち込まない配慮も大切です。ただ、放射性物質の方が厄介な物質と言えます。例えば頭髪に付着している花粉なら、放置しても何のいたずらもしませんが、放射性物質は、強弱は別にしても「微粒子から放射線を出し続けるので、除去する必要があります」。放置は出来ません体に付いた放射性物質は、頭も含めて洗い流すのが大事な対策になります。その意味では、帽子を被ることが有効になります。そして雨の時は、傘を差さないといけません。またはフード付のビニールカッパを着て、家の外で脱いで家に入るのがよいでしょう。逆に起毛したような生地の服は、払い落とすのに不向きだと言えます。放射性物質の微粉末に、どう対処すればよいかが解っていただけたでしょうか。

◎原発事故で出て来た放射性物質について

事故以前は、周囲の殆どの物が放射線を出していない世界だったにも関わらず、原発事故後は「放射性物質、放射性物質と騒がれています」。ナゼなのでしょうか。
既にお解りでしょうが、「今騒ぎになっている放射性物質は、原子炉が作り出した」ものなのです。先の説明でお解りのように、原子炉の燃料にしたウラン235が核分裂して、猛烈なエネルギーを発生させると同時に、炉内に大量の中性子が作り出され飛び交います。そしてその中性子が、周囲を取り巻くあらゆる原子の原子核内に入り込み(中性子捕獲反応)、放射線を出さない安定状態にあった原子核を不安定にしてしまうのです。その結果、原子炉内で大量の放射性物質を作り出してしまうわけです。(ウランが核分裂して出来る分裂後の新しい原子の多くも放射性を持っていますので、それらも加わることになります)
いずれにしても、原子炉内には原子核が不安定な物質=放射性物質が大量に作られてくる事になります。だから原子炉は、言い方を変えると「放射性物質への変換装置」でもあるわけです。膨大なエネルギーを手に入れる替わりに「生き物としての人間から見れば」、悪魔のような放射性物質を背負わされるといっても良いような装置でもあるのです。

◎「放射線」とは、どういうものか

「放射線」は、放射性物質より“自然に出て来るもの”なのです。出て来るのを止める人工的な方法は、現在のところまだありません。だから、出るに任せて出なくなるまで待つしか、他に対策が無いというのが現在の科学・技術の限界です。放射性がコントロール出来れば、強い放射能を持っている放射性物質も、「直ちに無害に出来る」ことになるのですが、有効な方法はまだ知られていません。
では放射線とは、どういう物なのでしょう。「放射線」は、歴史的には“光を当てていないのに写真乾板が感光した原因として推測されて来ました”。乾板が露光したのは、「目に見えない光線が当たったため」だろうと考えるしかなかったのでした。実験で調べていくと「目に見えない光線」のようなものが捉えられ、且つ、それらは3通り有り、電気的にプラスの性質をしたものとマイナスの性質のもの及び電気に影響されないものがあると確認されてきました。それらはそれぞれ「わずかにマイナス極側に曲がるもの」と「それより大きくプラス極側に曲がるもの」と「全然曲がらずに直進するもの」のような性質があることが判明しました。しかしその時点では、どんなものか解らないので、取り敢えず仮の名をギリシャ文字のABCに対応たせて付けられました。最初の物を「アルファー(α)線」次の物を「ベーター(β)線」直進の物を「ガンマー(γ)線」と呼びました。現在では後数種類飛び出すものがあることが解ってきていますが、放射性物質の「自然崩壊」からでる主要な放射線は現在においてもこの3種類です。
ただ、原子力問題の観点からすれば、これらの放射線に「中性子線」「エックス線」と呼ばれる放射線が加わってきます。そのため現在の検討対象となる放射線には「中性子線・ガンマー線・エックス線・ベーター線・アルファー線」の5種類あることになります。それらは、いずれにしても“飛び出してきている何か”だったのです。
5種の放射線で人体に危険な物から書けば「中性子線(中性子が連続的に飛び出してくる:大きいエネルギーを持っていて細胞への破壊力がある)」で、次に「ガンマー線・エックス線(共に光の仲間で電磁波である。貫通力が強く且つ細胞を傷付ける力が強い)」で、「ベーター線(電子の飛び出し)・アルファー線(ヘリウムの原子核の飛び出し)で、後の2つは比較的簡単に防ぐことができる」の順になります。ただ、原発から飛び出す放射線は、これらが混ざっている場合が多く、簡単に防御できるのは極々例外のケースになるでしょう。
「放射線が与える人体への害」を考える場合、これらの放射線が、体の細胞内の色々な物質とぶつかり、細胞を傷付けてしまうことによります(その顕著なケースは、細胞分裂中のDNAの鎖を傷付け異常細胞を作ってしまうことです)。
即ち、「放射性物質の出す放射線が細胞に害を与える」という図式で人体に作用してくるのです。

次に「放射性」とは、どういう事情から形成されてきた特性だったのかを見てみましょう。放射性物質が、放射線を出す性質(放射性)をもっていたのは、解ってみれば「飛び出してきた粒子等」の原子核内の居心地が良くなかったためで、「我慢の足りない腕白粒子(陽子と中性子)」が原子核から勝手に飛び出して来ていたのです(その飛び出してきた粒子達を放射線と呼んでいた)。そこで飛び出し粒子のα線・β線・γ線の正体を明らかにしようとして調べてみると、α線の正体は「ヘリウムの原子核(陽子2個と中性子2個。だから+2の電気を持つ)」だった。β線は「電子(−1の電気を持つ)」だった。γ線は、「可視光よりも波長の極短い電磁波(電気的に中性)」だったのでした。つまりこのような居心地の悪い連中が「原子核から飛び出して来ていた」というわけだったのです。飛び出してきた実物が解ると「家出先の事情」が見えてきます。
その第一点ですが、通常余り強調されませんが大事なことは、「放射性」の原点は「原子核の核内事情にある」ということです。放射線は、放射性物質から出るというボンヤリした表現ではなく、“放射性物質を構成する原子核から出て来る”ということなのです。その事実を踏まえると「放射線は、原子核由来のものである」ということが明確になります。そこで以下のことがよく理解できます。
α線が出る現象では、元の原子核から「陽子が2個出ますから、原子番号が二つ減ります」。即ち原子番号二つ下の元素に変わってしまったということになります。
β線が出る現象では、元の原子核から「電子が出ますから」これは解釈に苦しみます。原子核は元々プラス電気の集まりのはずで、マイナス電気の電子が含まれていると考えにくいからです。そうは言っても事実上電子が出ていることは否定しがたく、何とか説明を付けるしかありません。そうすると「中性子1個が、陽子1個と電子1個に分かれれば説明が付くことになります」。事実そのことは質量を測って実験的に明らかにされてきます(陽子は、中性子より電子1個分軽かった)。だからβ線が出る現象は、結局「中性子1個が陽子に変わり、余った電子が飛び出して来ていたこと」になりました。そうとなれば、元の原子核内では、「中性子が1個減り、陽子1個増えて、電子が出て来る」という変化が起きていたと考えられます。だったら原子番号が一つ増えます」。即ち、原子番号一つ上の元素に変わってしまったということになります。
γ線が出る現象では、現在ではγ線が出る幾通りかのパターンがありますが、粒子の出入りはなく、エネルギー的に余分なものを放出していると考えられています。だから元の元素が別の元素に変わるということは起きません。

“原子核が放射線を出すことで、核の事情が自然に大きく変わっていた”のです。だから、このことを「核の自然崩壊」と言い、α線を出す崩壊を「α崩壊」・同様に「β崩壊」と呼んでいます。核が、大きく割れる時は「核分裂」で、一部小さな変化の時は、「核の崩壊」と言っていることになります。
表面上、α線・β線・γ線という放射線を出していた現象が、それらの発生源で予想外だった元素転換という離れ業をやっていたのでした。放射線を出していたことが、放射性物質の原子核内での大きな変化の結果だったというのです。これらは、人類が知る以前のはるか昔から起きていた現象なのですが、見えないことは気が付きにくいと言うことを如実に教えてくれた実例です。解ってみたら「放射性物質の原子核は、“自然な成り行きで、自身の原子核を変化させて、別の原子核に変身して行っていた”のです」。自然に起きていたので、これを「原子核の自然崩壊」と呼んでいます。

◎ 同位体(同位元素)

放射性物質を考える場合、「同位体」という概念を知る必要があります。これは、先に「水素に3通りある」と話したことです。普通の軽い水素:Hと重い水素「重水素」2通り、デューテリウム:Dとトリチューム:Tと説明したところのことです。この場合、同じ水素でも、質量数が、1、2、3と三つあり、物理的な側面で少し違った性質を示すので、それらを別々に識別し、個々の物質としての特性を明らかにするために識別が必要なのです。とりわけ、放射性物質の特性から捉える「同位体」という識別法は、「同じ元素でありながら、質量数が違って(内部に持つ中性子の数が違って)来ると“放射性”を持ったり、持たなかったりするのと、“半減期”がそれぞれで違ってくるので、「同位体という識別レベルで」考える必要が生じるのです。陽子が二つ以上の原子核内に、中性子は「無くてはならないし、実は在り過ぎてもいけない」ようなのです。その間の事情を理解しておくための各元素の同位体で明らかにされた分類表みたいなものが出来ているのです。
昨今話題の「ヨウ素」で言えば、「ヨウ素の同位体」は37通りも存在しますこの37通りの同位体の原子番号は、どれも53で、53個の陽子を持っている周期律表で53番目のヨウ素という化学物質を表していますが、質量数では、108→144まで一つずつ違う37通り「ヨウ素」があるというわけです。中性子の数で言えば、一つずつ違って55個(108-53=55)から91個まであるというのです。同位体の表現としては、ヨウ素(記号でI)の横に書き加えられる108→144の数字でで示されます(記号で53108 )。左に書くも右に書くも上に書かれるのが質量数(質量数=陽子の数+中性子の数)を示しています。
「ヨウ素の同位体」は、37個あって、その中で、質量数127のヨウ素のみが安定なもの(放射線を出さない物)で、その他の質量数のヨウ素は、全て放射性(放射線を出す性質)を持っています。即ち、ヨウ素の同位体は、記号で書けば「I108⇒I144」と示され、これらの同位体は、放射性を持っているならそれぞれ違った半減期を持っています。同じ化学的性質を持つ物質でありながら、内部に持つ中性子の数が違えば原子核内はそれぞれの事情を反映してそれぞれの居心地になるということです。超超微小な世界でも、中性子1個の違いで居心地が微妙に違ってくることろが何とも不思議なものですね。

また質量数131の「ヨウ素」は、幼児の甲状腺ガンの絡みで話題に登っていますが、この同位体は、存在する量とヨウ素としては比較的長い半減期なので、注視されていると言えます。話題のヨウ素は、ウラン235の核分裂から出来てきたものですが、同じ同位体ならば、実は出来方は問題でありません。ヨウ素131は全て「半減期が約8日間」になります。同様にウラン235の核分裂から出来てきたものでも、陽子53個と中性子74個が運命をともにして出来てきた場合、質量数が127に成り、この場合は「安定な原子」として出て来ます。複数の同位体が安定なものもあります。ヨウ素はたまたま127以外は全て放射性を持っていたというわけです。放射性を持っているかどうかは、中性子の数が問題なわけです。

◎半減期と放射能の強さ

「半減期」自然崩壊で、今在る原子数が半数に減るまでの時間
放射性物質の振る舞いで、不思議で面白い性質があります。それが「半減期」というものです。この半減期というものは、「ある元素のさらに同位体毎に」違う値を持っているのです。半減期の意味は、実験室で「ある元素のその中のある同位体の原子の個数として“現在存在する個数”が半分になる時間が、同位体によって決まっている」と言うことなのです。
ヨウ素131の「半減期」は、8日間なので、最初の8日間で、初め在ったヨウ素131の原子数の半数がキセノン131に変わり、続く8日間で、残る半数の半数(1/4)がまた変換して行くわけです。即ち、半減期1回経過する毎に「元の原子の個数が半分になる」というわけです。どうして同じ仲間が減ったのを知るのか解らないのですが、仲間が減れば崩壊速度を落として、残りの半数がまた8日間で崩壊して行くのです。ここが不思議です。
原子炉で作られた色々な放射性物質は、色々な元素のさらに色々な同位体の混合物です。それらの同位体一つひとつに自然崩壊パターンが決まっていて、それぞれに固有の崩壊スピード(半減期)があります。崩壊スピードの速い原子核の時は「素早く崩壊して次の核に変わっていきます」スピードの遅い場合は、この逆です。その結果、短期間に崩壊してしまう原子核の仲間達は、放射性物質として誕生後、比較的速やかに姿を消してしまいます。放射性物質放出後、1ヶ月位すると放射能が下がるという理由は、この崩壊スピードの速い原子核が、急速に消えてくれるからです。この反対に、のんびり型の原子核は、しつこく放射能を維持することになります。半年後に残る放射能は、このようなのんびり型の原子核のためです。この辺を具体的に見ておきましょう。
半減期にも色々あり、超短期のものになれば、「マイクロ秒=百万分の1秒」で計るものから、「億年」単位のものまであります。ウラン238は長い半減期の代表で、半数に減るのに45億年掛かるので、現在の地球上でも放射性を持った状態で残っていたとも言えるのです。半減期の長短は、端的にいうと「地球上に居てる時間の問題」だとも言えます。それ故、「半減期の長い放射性物質は、いつまでも我々の生活環境に残って」放射線を出し続け影響し続けるということです。ただし、じっくり残るということは、崩壊する速度が遅いということでもあり、時々ポロっポロっと崩壊することになり、時間当たりの放射線量は小さくなります半減期の極短い放射性物質は、その逆で急速に崩壊が進み崩壊中の放射線量は大きくなります。長期に渡る放射能被害の主役は半減期の長い放射性物質だと言い得るわけです。核分裂生成物の中で、半減期の長い原子としてよく知られているのは、セシウム137(30年).ストロンチウム90(29年)等があります。

○放射能の強さは、

単純に考えれば、1秒間にどれだけ多くの原子核か崩壊して放射線を出すかで測られます。だから「1秒間に1個原子核が崩壊して放出される放射線の強さを1ベクレル」と定義しています。結局、ベクレルは、1秒間に飛び出すα線やβ線等の個数を数えた数値になります。そうだとすれば、ベクレルは原子核の崩壊(原子)の個数によって数えられるため大きな数になります(分子・原子の個数は、1モルで1アボカドロ数個(超大きな数)あるわけだから)。原子はとても小さい粒なので、もの凄く多数集まってやっと微粒子程度の大きさになるわけで、100ベクレル/リットルというような値は、そう大した数値でないと思われます。ただし、どんな放射線が出ているかには関係しない値なので、ベクレル数は、単位時間でどれだけ多くの原子核が崩壊しているかの目安で、そのままでどれだけの危険性を持つかは示せない数値ということでもあります。

◎崩壊過程を繰り返し、最後は安定な原子核になる

放射性物質という名詞は集合名詞で、その言葉の実体は、様々な原子の、そのまた様々な同位体の集合で、多種多様の原子核が混ざっています。それらの同位体の中の放射性を持つ同位体は、それぞれ決まった崩壊系列で次々とα線・β線・γ線等を出しながら自然崩壊を繰り返し、最後には放射線を出さない状態(安定原子)になって落ち着きます。現在では、放射性物質の崩壊過程が細かく解明されています。ある物質は、始めα崩壊をして、次もα崩壊して、その次はβ崩壊をすると言った具合に実験的に解っています。そして、最後に辿り着く原子も解っています。それを概略で示せば、「鉛:Pb」より質量数の大きい原子では概ね鉛に、鉛より質量数の小さな物では、それらの安定原子に成ったところで自然崩壊は終わりです。
これらの変化は、原子核(原子)1個1個で起き、しかも同じ原子であっても質量数が違えば崩壊系列は違ってくるので、「集合体としての放射性物質」の内部では、何とも複雑でたくさんの自然崩壊が同時に進行します。しかし、自然崩壊の3パターン(厳密にはもう3種あり)は、それぞれ共通で、α崩壊・β崩壊・γ崩壊のどれかになるわけです。α崩壊では、原子番号二つ下の元素に変身し、β崩壊では、原子番号一つ上の元素に変身して、γ崩壊では原子番号は変わらない形で、原子核が変わり、そうなれば当然原子が変わり、「元素が変わってしまう変換」が続くのですから、「物質の不変不滅」ということを信じ込んでいる古い頭にとっては、つぶさに信じられない位の自然観の変遷になるものと思われます。(原子核の崩壊過程や半減期を調べるには、『理科年表』が便利です)

◎「放射性物質が人体にもたらす害」

人体に直接被害を与えるのは「放射線を浴びること(放射線被曝)」によってです。
「放射性物質」が、人体に与える被害は、ワンクッション置いて、2段階目で生じます。放射性物質が皮膚に付いたり、体内に取り込まれたりしただけでは、それで直ちに被害を受けるのではないのです(毒物が体の細胞を直ちに殺すといった害を与えるのではないのです)。被害が出るのは、放射性物質が出す「放射線」を体の細胞が受けて「正常な生命活動が維持できなくなった」場面からです。その時、細胞は死滅するかガン化するかして、正常な細胞としての働きが出来なくなるのです。そうは言っても、どの細胞も同じ強さで害を受けるのではありません。放射線に強い細胞と弱い細胞があります。活動性の高い細胞が相対的に害を受けやすいとされています。生殖細胞や成長期の子供の細胞などがやられやすいのです。

それに関連して、人体の放射線被曝に対しては、大別して2つのパターンがあります。その一つは、原発で働いているような人が受けるケース(短期の大量被曝)、もう一つは、一般人が受けるようなケース(長期小量被曝)です。今原発内部で働いてくださっている人達は、強い放射線を全身に浴びているなら、全身の細胞が傷付くことになります。そして、受けた放射線量が「シーベルト単位」で表せるくらい(数シーベルト)の量ならば、一挙に多くの細胞が異常になる可能性が高いというわけです。他方、弱い線量の被曝を長期間浴びる(長期小量被曝)の場合では、チェルノブイリのデータ等で考えてみると「DNAの修復能力が働いて、そう心配になるほどのことはない」ようです。ただ例外は、妊婦と乳幼児で、成長ホルモンを作る甲状腺に放射性ヨウ素が貯まると幼児に甲状腺ガンの発症が増えたというチェルノブイリのデータがありますだから妊婦と乳幼児は、可能ならば危険とされている水や食品を避けるのが良いでしょう。ただ、十分大きくなった青年・大人では、ヨウ素に対しても、他の元素含有の放射性物質に対しても、チェルノブイリのデータとしては、さほど気にすることはないようです。危険だ危険だと気にしすぎて「免疫力を落としてしまわないように」する方が大事だという指摘もなされています。私も、今回色々調べてみて、一般人の長期小量被曝に関しては、避難指示地域に長時間入るといった、無茶なことをしない限り、“ほぼ心配しなくて良いようだ”と判断しました。人間では、乳幼児から成長期の範囲を例外に、ほぼ大人になってしまえば“放射線をそれほど気にしなくても良いようだ”と思えるようになりました放射線を受けてかなり後でガンに罹る確率が0.5%アップするという数値が強調されていますが、日本人の死因でガンが半数に近い時、50%⇒50.5%に成ったからといって「本当に有意な差」と言えるのでしょうか。私も、ここの所を冷静に考えてみて、“大人の場合は、タバコや酒の飲み過ぎよりも大きな影響を受けることがない”と納得したのです。そのことが納得できて、私は、マスコミからの情報や危険を煽っているように思える情報が無責任に思えるようになりました。そして多くの人々が「放射線に対して過剰に反応し過ぎている」と思えるようになりました。
放射線が人体に及ぼす影響に関しては、NPO法人あいんしゅたいん(私も会員の一人)のホームページを見てください。免疫学者の宇野博士が詳しく解説してくださっています。宇野博士のまとめて下さった内容等で、「余り神経質になることはないのだ」と思わせていただいたわけです。

ひらがなで「あいんしゅたいん→検索 でお願いします。

上記の宇野賀津子カヅコ先生が、『低線量放射線を超えて』福島・日本再生への提案:小学館101新書(720円+税)の本を出版されました。関係者の皆様から待たれていた本だと思います。どうぞお求め下さい。加筆:2013.8.26

◎この後、放射性物質とどう付き合うか

日本は、広島、長崎と今度で3度目の放射能汚染を被ってしまいました。そして今言えることは、ひどく汚染されてしまった土地では、比較的長期戦を覚悟しなければならないだろうということです。それさえも「今後大量の放射性物質が撒き散らされない」としてのことで、再度爆発に至るようなことがあれば、現在の対策でさえ十分でない場合が生じてきます。今のまま無事収束していってくれることを祈るばかりです。
これまでの政府や公的情報の取り扱いを見ていますと「突然、水を飲むな。この野菜は、売るな。食べるな」と言った調子で、根拠も示さずただ命令調にニュースが流されてきただけです。東電からも、保安院からも、政府からもコメントは出るけれど、その内容はしばしば食い違い、間違いが訂正され、何を信じたらよいのやら国民は信頼を寄せるべきものを持たない状況で推移したように感じられます。この先、まだまだ長く放射性物質と付き合って行かざるを得ないので、どう対応すればよいかを考えておきましょう。

◎行政・JA等現場関係者が「放射能測定器を持とう」

それから、農作物の放射能汚染に関して、野菜の種類と「○○県産」という地域指定で食べないようにという報道が為されていますが、科学的には「かなりいい加減」です。露地物とビニールハウス・温室での産物と同じに扱うのが妥当かどうか。外気の取り入れの時に放射性物質が多く飛んでいたときなら、ハウス物も汚染は免れませんが、露地物の汚染に比べればかなり軽微になると予想されます。それにも関わらず産地の県別で食べられる食べられないを規定するのには無理があります。最も確かなのは、同じ農地で取れた野菜から適当なサンプルを取り出し、放射線量を実際に測定して、規定値より高い農作物等は「検品ではねて」正常値範囲内の製品は販売ルートに乗せるようにすることでしょう放射線量は、元々産地名等「ことばで定義できるものではなく」測ってこそ明確になるものです。測定してこそ意味のあるもので、汚染の程度がひどい物を確実に廃棄処分にすることが大事で、「風評被害を防ぐ」意味からも実測値で、販売なり廃棄なりを決めるべきものでしょう。そのためには、全国にある休眠中の放射線量計測装置を原発周辺に集め、さらに新品測定器を増産して貰い、しかるべき検査済みの認定をして、販売ルートに乗せて貰うのがよいと思われます。この処置はまだ相当長期間しなければならない対応なので、行政・JA等現場関係者は、「自分で測定できる体制」を作るべきでしょう。そうすれば地表の放射線量も細かく測定できるし、希望者には直接測定してあげることも可能です放射線量の簡易測定は装置さえあれば簡単に行えますし、持ち運びも出来ます。だから是非とも必要なところには常備しないといけません。都合の良いデータのみを発表しているようにも思える東電や政府の発表する値にどれだけの信憑性があるのか、国民の多くは信用できないと感じていると思われますので、方々で実際に計れば信用できるし納得できるものと思われます。(精密測定は、高度な設備と時間を要するので、ここでの話は簡易測定器での話です)

○今住んでいるところ(元の家のあるところ)の汚染度は?先ず汚染度を知らねば

このまま事故が収束することを前提にして、今居るところ・元の家のあるところの汚染状況を知らないと判断のしようがありません。この後順調に推移すれば、放射線量は、毎日低下するのは間違いのないところですが、1ヶ月後、三ヶ月後、半年後に、どれくらい下がり、通常の生活が出来る値かどうかです。半減期の短い放射性物質は、急速に放射線を出して、放射能を下げますので、比較的短期間に放射線量は下がります。しかし、下がって今、「いくらの線量があるか」です。結局、自分で放射線量を測るのが最も有効な手段だと言えます。毎日、毎日が無理なら1週間に一度、かなり細かく測定地点を決めて放射線量を測り続け、住民にデータを提供し続けることが是非必要です。値が順調に下がり続けていれば、その後の放射性物質の放出が止まったと考えられますので、「元の家に帰る期待が持てますが、値が上がりでもすればガッカリしなければなりません」。汚染の程度が解ったら、「汚染度の値」をどう解釈するかどうかは、ネットから情報を採って、具体的にどう対処するかが考えられるでしょう。
軽い汚染地なら、しばらく待って元の家に戻る可能性もあるでしょうが、汚染がひどければ当分帰れないと判断するのもやむなしかなと思われます。それでも、短時間の帰宅は可能のように思われます(データ発表が無いので推測で書きますが、放出が止まって1ヶ月経てば、数時間帰宅することはそう大きな被曝にならないでしょうから。計測して安全を確認して行動されますように)。どういう選択肢があるかはデータ次第です。地面・空気・水・農作物や牧草等の汚染度を把握することが先決事項になります。

投稿日 2011.4.15

福井県で、福島と同じ事が起きれば、
放射能汚染で日本は南北に分断されて……

保安院はまだ電源喪失を言っているが、
優先順位が違う、第一位は燃料棒を冷やすことだ
電気があっても、燃料棒が高温では危険!

「原発再稼働」に向けた野田内閣の無茶苦茶な論理が、やはり出て来た。いずれほとぼりが冷めだした頃から、再稼働の話が出て来るとは思っていた。それは、ある種必然でもあるように思っていた。しかし、その出して来るやり方が予想以上に「お粗末に過ぎた」。国難とも呼べる事故を起こしながら、原子力行政や電力会社に「まともな反省の姿勢が見られない」中、理屈抜きの言いくるめ作戦なんだから、日本の政治も落ちに落ちたりだ。
もうちょっと体面を保った賢いやり方はできなかったのか、少なくとも【人災に至った色々な原因】をあげて、然るべき反省点を出し、安全性向上に向けた諸々の見直しと、新規の安全対策や安全基準を示して、「再稼働までにはこれだけの対策を実施して掛かるがどうだ」という説明が国民に対してなされるべきだろうに。それがなされて後、国会や国民の間で“再稼働”の議論が始まれば、それは妥当な手順が踏まれて進められていることになり、ソコソコ信頼できる気持ちにも成れるのだろうけれど、「事故を直視した対策がまるで出されてこない中、一次ストレステストの結果を見て(原子力安全委員会委員長が、二次テストを含めないと安全を議論できないとコメントする中)、“安全性は確保できた。よって再稼働する”と言い出す訳だから、野田内閣は常軌を逸しているとしか思えない。

現在の野田さんがいう再稼働の言い分を解り易くすれば、「(電力が)必要だから」、政治次元で“安全だと宣言して、その宣言を以て安全にしてしまって”運転再開に漕ぎ着ければいい」というのである。野田さんは、それで通ると思っているのだろうか?。そんな言いくるめで、国民が納得するわけがないし、国際的にも「日本の政治の知能レベルの低さを晒して恥ずかしい」。でも、手の内見え見えの詭弁にもならない言いくるめで、「首相決断で、再稼働に持ち込むつもり」が、まことしやかに伝えられると「国難の中にあって、さらなる国の危機管理意識の無さに」国民の多くは唖然としてしまうのである。私自身唖然としている。こんな安易に再稼働をするなら、「福島の事故の教訓をまるで無視している」。こんな国の対応をみて、一度キッチリと「原発の安全性」について、科学・技術の視点から整理する必要があるように思うので、これを書くことにした。

《 「原発の安全性」について 》

「原発の安全性」は、そもそも「電力の必要性」とも「政治性」とも別次元の問題で、「政治的に安全だと宣言したから安全だ」と言えるようなものではもうとうない。原子炉は、原子核物理学に立脚して考えられ、実用化されてきたものだから、その基盤は、自然科学にあり、機械システムを現実的に作り上げ運転する分野では、技術・工学が担う。
そこで、現在議論すべきと思われる「原発の安全性」に関して、科学・技術の側面から理解し易いように「単純化して問題点を整理しておこう」と思う。

《 核分裂に関する科学法則 》

①核分裂反応

不安定な核分裂物質が中性子を吸収すると、中性子の攪乱の影響により、その物質の原子核がほぼ半分に分裂すると同時に約3個の新たな中性子を放出する(核分裂反応)。この時、原子核の分割片は超強力な電気的斥力を受けて、超高速で飛び出してくることになる。この分割片は周囲の原子にぶつかり受け止められて、運動エネルギーは、熱エネルギーに変換されることになる。この時出て来る熱エネルギーこそが、発電用に取り出したい、原子核の核分裂によって取り出されたエネルギーに当たる。

②自発的核分裂

核分裂物質が、ある量以上一個所に集まると核分裂の連鎖反応が自然に起きてしまう。(通常火薬を爆発させるには、雷管等で着火させる必要があるわけだが、核分裂物質にあっては、着火の操作は必要なく、「臨界量以上の核分裂物質が一個所に集まる」という条件を満たせば、自然に爆発してしまう。便利と思えるその性質が逆に、とても恐い性質になる。自発的核分裂が起きない条件で取り扱うことが、絶対に守らねばならない核分裂物質の扱い方の鉄則になる)燃料棒を間隔を取り、並べていれば爆発条件に成らなくても、燃料棒が溶けて、底に貯まれば爆発条件を満たしてしまうような事態になることがある。3号炉の燃料棒保存冷却プールでは、その条件に成ってしまって大爆発してしまった。

③核分裂を制御するには=中性子の数をコントロールする

核分裂物質に中性子が入ると、その原子核が分裂してエネルギーが出て来るわけだが、1個の原子核の分裂と同時に、約3個の新しい中性子が飛び出すことになる。もしもその3個の中性子が3つの原子核を分裂させていくとすれば、核分裂反応は次々と3倍ずつ増えることになり、一挙に急激なエネルギーの放出になる。この現象は、制御不能の強烈なものになり、実質的にこれは核爆発現象を引き起こす。これを制御しようと考えれば、急激に核分裂を増加させることはまずいやり方で、ゆるやかな変化で対応できるように、反応をほぼ一定にしつつ徐々に変化させる方法を考える必要がある。そのためには、「必要以上に出て来る中性子を核分裂反応に関与させなくするように吸い取ってしまい」、反応の程度を徐々に変えられるよう操作できれば、好都合であることが解る。
そこで、核分裂を制御する仕組みを考えてみると、「まず自発核分裂を起こし得る量以上の核分裂物質を配置しつつ、周囲を飛び回る中性子が核分裂を誘発しないように、中性子を吸い取る手立てをする。そうして核分裂を防ぎつつ、次の段階では、中性子の吸収量を徐々に減らしていき(徐々に核分裂反応を増やしていくことになる)、発熱をコントロールしていく方法がよいように思われる」。それを具体的に機械システムとして考えると、中性子吸収性能の良い物質で作った制御棒を、始め差し込んでおいて、その後徐々に制御棒を引き抜いていくと(核分裂反応の個数を増やしていくことに相当)、ある瞬間、連続的に核反応が始まることになる。そうすると取り敢えずはそこで制御棒の引き抜きを止めて、この後は必要な熱出力になるように制御棒の引き抜きを微調整すると、微妙な調節で核分裂を制御することができることになる。即ち、「核分裂に関与する中性子の量を増減することで、核分裂をコントロールしよう」というアイデアの現実化になる。制御された核分裂の仕組み=原子炉ということになる。

④崩壊熱の発生は止められない

物質を放射性の有無で分類すれば、放射性を持つ物質と放射性を持たない安定な物質に分類できる。放射性とは、語源的には目に見えない何かが飛び出しているということを言い表した言葉である。その現代的な解釈では、放射性のある原子は、原子核が不安定状態にあり、原子核から粒子または電波(=電磁波)が飛び出しているのである。この現象は、「放射性原子核の自然崩壊」と呼ばれている。そして、この時出て来る熱を「崩壊熱」と言い表している。即ち、放射性物質からは、厳密にはいつでも熱が出ているのである。
とりわけ、運転停止後の燃料棒は、数ヶ月間かなり大量の熱を出す。停止直後の発熱は、発電中の5%に達すると言われている。ナゼなら、運転中の炉心では大量の中性子が飛び交い、炉心を形成している物質の全ての原子は、飛び交う中性子を必然的に取り込み、ほぼ全ての原子が放射性を持つように変えられてしまう。だから、大量の放射性物質から比較的大量の崩壊熱が出て来ることになる。この熱が、核分裂反応の「燃え残りのように出て来る熱」で、原子炉の運転停止後にも出て来て、炉心冷却がうまく働かなければ「炉心溶融(メルトダウン)」を引き起こすことになる熱である。この熱は、原子核の自然崩壊という名称からも推測できるように、「自然に起きてくる現象で」、現在の人知では制御不能で、半減期の短い原子核の比較的短時間での崩壊を待って(この期間は、放熱が多いから)、崩壊数が減ってくるのを待って(冷温停止)作業に取りかかることになる。

⑤爆発を免れる最悪状況で原子炉停止に持ち込む条件

原子炉の正常な停止のためには、「核分裂により発生させた熱」と「核分裂の副産物として出来てくる放射性物質の核の自然崩壊によって出て来る熱」の2つの熱をトラブル無く外界に取り出す冷却システムが、理由の如何を問わず確実に働く必要がある。これらが正常に働いて、崩壊熱の発生も減ってきて、一気圧の下で炉心の温度が百度以下になった時、「原子炉が冷温停止(原子炉の全システムが正常に機能している場合に限っての用語で、建屋や施設等が壊れている条件下では冷温停止と言えない)した」と言っている。
原子炉が正常停止するのが本来の姿であるわけだが、トラブルが生じた時に“爆発に至らない状態で、どのように原子炉を止めるか”を科学的に考えておくと、制御棒が全然挿入出来ないとなると「大量の発熱が続くので、ほぼ大惨事を免れ得ない」と考えられる。しかし、対策が無いわけではない。この対策としては、「中性子吸収剤」としてのホウ酸の炉心への投入が考えられる(JCO事故ではホウ酸の投入で連鎖反応を停止できた)。ホウ酸で制御棒の役目を替わって行わせることになる。
次に、崩壊熱の除去に関しては、圧力容器の減圧(ベント=放射性物質が多少環境へ排出されるが)の後、川の水や海水の炉心への注入で燃料棒を冷却する。最最悪の場合として、“消防車のポンプででも炉心(=圧力容器)に水が注げるように原子炉を改修することがよい対策になる”と思われる。格納容器を冷やしても圧力容器の内部にある燃料棒の熔融は止められない。メルトダウンを止めるには、燃料棒を直接冷やしてやらないといけない。そのため炉心に直接給水できる非常用の特別な配管を備える必要があると考えられる。

科学法則という側面から、核分裂型原子炉が関係する主要な法則性(発熱に対する冷却という対処法を含めて)をあげると以上の5項目になると思われる。とりわけ⑤番目の記述は、最悪な状況下での原子炉の安全な停止のための条件として、解り易く示したものである。

科学法則は、実験で検証された因果関係であり、想定された条件下では、原因となる同じ状況が作り出されれば、100%確実に「証明された結果」が起きることになる。この科学法則で示される関係性は、前提条件さえ間違っていなければ確実である。即ち、原子炉の正常停止措置としては、「制御棒の挿入」と「停止後直ちに炉心冷却を行う」必要があるということになる。このことは、逆に考えれば、地震や津波に晒されても、建物・設備が正常に働き、「制御棒の挿入」と「停止後直ちに炉心冷却を行う」ことが出来れば、“原子炉は安全である”と言い得る。理屈ではそういうことであり、現実の建物・施設が正常であり、機械システムが予定通り働けば、津波に襲われても安全だと言い得るわけである。即ち、安全な原発とは、どんな環境の下であろうと、「建物・施設が壊れなくて、機械システムが正常に働き、制御棒の挿入と停止後直ちに炉心冷却機能が働く条件を満たす原発」と言い得ることになる。

《 技術に関する考察 》

これらの科学法則が示す現象を具体的に作り出す環境・設備等を作り出すのが、技術の担当になる。核分裂反応を起こさせる設備が、反応炉=原子炉圧力容器になる。また付随する格納容器や燃料プール等を入れると何千㌧にもなる原子炉の炉体を、地震や津波に耐えるように作り上げることから、「制御棒の挿入」が確実に行われるように、さらに「停止後直ちに炉心冷却」が確実に行えるようにシステム全体を作り上げる役目もそれら全てを技術が担う。原発のシステムは、超微妙で、一瞬のミスが取り返しの付かない危険性を孕んでいるため、なるべくなら安全側への制御が自動的に働くようにするべきだし(フェイル・セーフ)、自動制御が利かなくなったときは、手動でも代替できるように作られている必要がある。さらには、緊急炉心冷却システム(ECCS)が仮に働かなくなったときでも、炉心に海水の注入が出来るところまで考えておく必要があると今回の福島原発事故が教えていると言えよう。「炉心に海水の注入が出来る」ようにしようとすればどういう手立てが必要かを考え、その手立てを取り付けるのも、また技術である。こんな非常用の手段まで考えておくことさえ大事なのだと今回の事故は教えてくれたのである。
そしてまた具体的な働きかけは「全て技術」の担当になる。
技術が未熟か、またはその対策が為されていない場合、「期待する成果は出せないことになる」。実例を挙げれば、福島では炉心の圧力を下げる操作(ベント)が出来なかったのである。技術が未熟だったのである。仮の話ながら、ベントが初期に出来て、消防車のポンプででも炉心に海水が注入できていたら、事態は爆発に至る手前で止められたのである。そこで考えると、消防車のポンプで圧力容器が冷やせる仕組みを持っている原発はまず無いように思われる。でも、原発の建設時点で取り付けるのは、別に難しいことではないはずだ。対策が為されていないと役に立たないことは自明のことだが、福島に消防ポンプで炉心が冷やせる仕組みが組み込まれていたとすれば、爆発は止められたのである。
同様に国際勧告等を聞き入れて少し対策を強化していれば、ここまで最悪になる手前で止められた可能性は高い。ちょっとした安全対策費用を出し渋ったために、国難を招いてしまったのである。稼働中の原子炉に改修を加え「消防車のポンプででも炉心に海水が注入できる仕組みが作れるかどうか」は、なかなか難しい問題だと思われるが、可能ならば世界中の原発にこのパイプを追加で付けたいところだ。

安全対策は、「危険な事態に対処する具体策」だから、基本的に技術の問題になる。予想できる危険に「どう備えるか」なのである。そこで誰でもが知っている諺に突き当たる。

「備えあれば、憂い無し」

「原発の安全性」を高める努力は、【実際に危険だった時に、危険でないかと思われた時に、その危険を取り去る対策を逐一実施していくこと】に尽きるように思われる。恐かった・ヒヤッとした時こそ、忘れないでキチンと対策を講じるべき時なのである。その対応の大切さを教えてくれるのが、この諺である。

《 経営者の素質 》

ナゼ、東電は勧告された安全対策を無視し続けたのか。一般人がこのたび知り得たところによれば、「電力料金」というのは、特異な“一括原価方式”というシステムで計算されるという。この原価計算の方法は、“掛かった費用は全額原価に含めてよい”という、普通の会社では考えられないような「おいしい料金の計算法」なのに、原子炉本体の安全対策費は、ケチった。地元対策や政治家・学者対策は、怠りなくしていながら、炉の本体への対策はナゼしなかったのか。炉の本体を強化することが肝心な安全対策ではないか。そして、いくら費用がかかろうが、料金に上乗せできる特権的経営が許されているなかで、極端に言えば「それだけをケチった」。ナゼなのか、単純に考えて次の結論に行き着くしかない。「科学・技術に対する謙虚な対応が微塵も見られない」と。

電力会社の経営トップに科学・技術の素養のない人が座ることは、国家的危険を呼び込むことがよく解った。安全対策費を費用に見なせる経理上のメリットを持ちながら、国際的勧告まで無視するなどというのは、まともな人間の判断とも思えない。関連して東電の判断に関して、忘れられないことがある。今でもハッキリ記憶している。事故が進行している3月11日の夜のニュースで、東電の副社長は、“涼しい顔で”「対応は、現場に任せてある」と言いはなった。そして、その後明らかになった話では「現場の海水注入の決断に、それをすれば廃炉にしなければならないから待て」と東電本社は現場に命令したという。ということは、あの緊迫した危機の中にありながら、涼しい顔でウソを喋り、現場に任さず間違った指令を出している。原発のことは知らなくても、経営的ポイントは、知っていたということである。
経営者のこの言動をみれば、「安全神話」を隠れ蓑にして、安全対策費を「ただただケチれる金」と思って来たのではないか。本来的な経営の次元で「安全対策」を位置付けていなかったように思われる。東電の経営層の頭の中は、単純に「儲けの話」=「収益性」の話が最優先であり、放射能汚染の危険等に絡む「原発の安全性」をどの程度考慮していたのか大いに疑わしい。

科学・技術とソロバンの織りなした福島原発の大事故であった。この国難を国民あげてどう理解するべきなのか。

その先頭に立つべき人が、「震災・原発事故の復旧・復興(国難)を棚に上げて」、消費税の増税に命を賭けるとおっしゃっている。世の中、狂いすぎているのではないだろうか。

安全性の議論は、本来、科学・技術サイドの問題なのに、政権の中枢にいる人間が、電力の「必要性」と「原発の安全性」をあたかも関係のあるかのように言い回し、結局のところ“オレが安全だと言えば、安全なのだ”と叫び、政治判断で大飯原発の再稼働にゴーサインを出そうとしている」。とても危険だ。

(文体変わります)
 なんか話が違っていませんか。電気が無くても生きて行けます。でも、放射能に汚染された土地では住めませんよ。

福井県で、福島県と同じ事が起きれば、福井から大阪・奈良まで住めなくなりますね。国土は二分され、しかも地上を行き来できなくなりますね。日本国壊滅ですね。それでも、何も安全対策らしい対策を講じずに原発を動かしますか。

燃料棒冷却プールを別棟の施設にすることもしなくて大丈夫ですか。イザの時、メチャクチャ危険ですよ。裸の原子炉が3たび出来てしまいますよ。

投稿日 2012.5.25

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