FD活動は、再び盛り上がるか

ネットの案内で見付けて、2年半ぶりにあるFD研究の会に参加させていただいた。そして、「変質中のFD活動の兆し」といったものを感じてしまったので、今回はその印象と分析を書いてみることにする。

変質は、3年も5年も前から何となく感じていたけれど、それはあくまでも何となくで明確にここが違ってきたと言えるものではなかった。しかし、今般それが言えるようになったのである。それは、FD活動を「自分自身の研究業績にしよう」という意識が前面に出て来たということである。そのことを感じてしまうと、そう言えばかなり以前から「その傾向は出て来ていたな」と思えるのではあるが、それをモロに感じてしまうと私などは何かしら「残念で、ガッカリ」してしまう。「良い授業」をするのは、自分の張り合いだし、学生が良く解って熱心に勉強してくれるなら、“こんな嬉しいことはない”というスタンスでやって来たからである(これが素直な気持ちだった)。でも、でも……

「結局、サービス精神の違いなのですね」。教育は、サービス精神の発露。利他心の現れ。現在の業績主義の環境が解らないわけではないけれど、授業にエネルギーを投入するのならば、研究業績に結び付けられないかと考えてしまう。それは、ある種必然性のものかもしれないけれど、“利他的気持ちで、解り易い授業をして勉強好きの学生を育てたいな”と言った(牧歌的な)願望を抱けたら、現在の大学教員ももっと楽しいのではないかと思われるのであるが、……

振り返って、私達(第二期と思っている)を指導してくださったFD第一期の先生方は「研究業績も高く、且つ、学生の学習レベルを上げたいと真剣だった」ように思う。言わば大学教員の模範になる方々であったように思われる。世間一般、ますます人間的スケールの縮小は、避けがたいことかもしれないけれど、大学教員はもうちょっと意識を切り替えて欲しいものだ。もうちょっと「利他的に、サービス精神を出すように」。短時日でそうなってくれとは言いません。時間が掛かってもいいから、“なるべく学生に対してサービス精神を発揮するように努めていただけたらよいのである”。そのちょっとした心掛けが、長い時間持続すると「明らかにその先生は人間的に成長される」のである。人間的スケールが大きく成られるに違いないのである。

「組織は、リーダーの器以上には成れない」という格言があるが、昨今しみじみと本当だなぁと思わせられている。政治主導と言葉で標榜しても、優秀な官僚を使いこなせないのである。器の違いである。政治家の人間的スケールが縮みすぎて、“一目置かれ、尊敬される”ような人が出なくなってしまったのである。「帝王学」を学ぶという環境が廃れてしまったためだろうか。自己啓発セミナーは花盛りなのだけれど、どうも「器を大きくする」帝王学の講座は無くなってしまったのではなかろうか。本来なら、大学院の講座として当然有ってしかるべきものなのだが、もう長くその機能は働いていないように思われる。こんな部分に関しても、大学改革の影響が有って欲しいところだが、個人次元の「授業改善」活動でさえなかなか成果を上げられなくなってきている訳で、大学全体の改善運動としてのFD(教育改善)をより効果的に推進するには、リーダーに相当大きな器をしておられる方を得なければならない。そこを間違うとFDは間違いなく形骸化するだけで本来の意味は失うだろう。

まさに今、全国に500近い大学が存在しながら、日本は国難に沈みつつある。東日本大震災にあえぎ、70円台の円高と一層の財政赤字に苦しみ続けるしかないのだろうか。この現実を如何に切り抜けるか、そのような大きなビジョンが出せる人材をキチンと排出できるような大学に成らねばならないのだが。
先ずは、FDをリードしていってくださっている方々に、利他心の発揮と器を大きくする地道な努力を重ねていただくことをお願いしたい。

投稿日 2011.10.23

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