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長々と書く必要はない。タイトルの主張ずばりである。
「少し景気が良くなった」と見えて、急に“労働力不足”の声が経済界を中心に高まりを見せている。そして、その合唱は、「労働力確保のために、外国人の移民を招き入れよう」というものである。ナゼこうも単純に問題を解決しようと発想するのか!
この対応においても然りで、ここ10年ほどの経済界のお粗末さを象徴しているように思える。経営者の視野が余りにも狭く且つ近視眼的になり、直接的な問題解決に逃げようとしている。役人・政治家も又然りで、日本の足元の事情を踏まえ、大局的に考えようという視点がない。何と言うことだ。

外食産業等での労働力不足は、かなり深刻なようであるが、低賃金・超長時間労働を強いて働かせた報いが来ているのであり、言わば「自業自得の面が強い」のではないか。そのことの反省があるのかどうか、「次の安い労働力は何処にあるか」と探して、今度の合唱になったのだろうが、「人を大事にする」土壌が崩壊したままの発想では、応援隊の外国人に次の迷惑が及ぶのではないか。経済界は、足元から勉強して出直すべきであろう。

日本の現状を見る視点があれば、私の訴えようとすることなど、当然の前提条件に入っていたはずなのだ。今やニートは62万人と言われている。当面必要としている労働力の2倍分の人が、色々な事情はあれども「労働力人口に数えられない存在になっている」。これは現在日本の由々しき事態なのである。この事態を知ってか知らぬか、その現実を見ないで、「当面の自分自身の企業が当面する問題を“なるべく即効的に解きたい”と思って」、海外よりの移民に頼ろうと言い出すのである。雇用の問題も、ニート対策の部署も「共に厚労省」になる。逃げずに真正面から問題解決に乗り出すべきでないのか。

移民に反対する意味でこれを書いているのではない。それを推進しようという人が居て当然である。私の願いは、ニート(35才以下の働きたくないという若者達)が日本に現在、62万人いるのである。「人」は、社会の一端で働き「社会人」としての生活が営めることで、「社会的存在としての生き甲斐の発揮」が出来るもの。社会と隔絶されたところで、生命を永らえるだけでは、「人間を生きた」と言えないのではないか。この不幸な人を救い出し、働いて貰える居場所を提供することに、経済界も政治も取り組まないといけないのではないだろうか。

ニートの問題を「労働力不足」の現状と重ね合わせて議論できることは、とてもラッキーなことである。ニートに紹介する職業があるのだから。こんなラッキーな環境を見逃すべきではない。ニートの若者に職業訓練をして、「社会の一員として参画させる」事業に取り組まねばいけない。問題解決の厄介さは、一筋縄ではないだろうが、「ニートの彼等は我々の同胞であり、うまく社会に適応してくれないと、将来、生活保護で養われる国民になってしまうかも知れない」。それではお互いに余りにも不幸であろう。

労働力不足⇒外国人移民の促進。こんな見識のない単純な理屈で考えないで欲しい。この発想では、来て貰う外国人に迷惑を掛けて、申し訳ないことになるのではないか。

私の好きな中村天風の言葉に「人生は心一つの置き所」というものがある。ちょっと解釈が難しいが、「自分が大事と思う方向に選択していけば、人生は自分の思うように築かれていくものだよ」という意味だ。即ち、シッカリ自分の意志を持っている人は、その意志の通りに人生が展開されていくが、優柔不断な気持の人は、その時の気持次第でフラフラ揺れる人生に成っていくということだ。人生も政治も“一寸先は闇”であり、吹く風任せの人生を歩んでいれば、どこの港に入れるかは風任せになってしまい、自分の人生が送れるはずもない。風任せで航海できればまだしも、一瞬の油断で人生がどんなに暗転するか予想も付かない世界だと言えば言えるのである。

結婚するか独身で行くか。人生の決断とすれば、相当大きなものになるのだが、「いい人が現れたら……」と半分風任せを決め込んだら、その時は“全部風任せ”を選択することになるよ。そこのところが、アナタの人生の分岐点だろうね。そして、今の日本の状況をベースに考えれば、「独身でいく方が、気楽で自由な生活が送れる」と思われるね。独身なら好きなことをしても迷惑を掛ける人が少ないだろうし、イザの時自分だけが食って行ければ何とか成るので、責任も軽くて済むだろう。だから、将来に責任が持てない気分なら「独身に逃げるのも良しだ」。そりゃー結婚する方が大変だよ。言いようによれば、「好きこのんで苦労するために結婚することはないよ」とも言えるよ。

しかし、ここが思案のしどころなんだよ。生き甲斐というか、生まれ甲斐というか、「今生の人生をどう位置付けるか」なんだね。今回の地球上の人生、苦労も一杯したけれど、「頑張って生き抜いたなぁ」と思えるような人生にしたいか、あんまり苦労しないで、ノホホンと生きたらいいと考えるかだね。後者の気持に近い人は、「却って独身がいい」かもしれないね。結婚するかしないかは、ここの人生設計に関係してくると思われる。「全ての選択に」長短有り。どっちを選ぼうが大した違いのないものならば、迷う必要もないし、拘る必要もないのだが、この問題はそうとも言えないので、一考の価値の有るものになるのだね。

「人間」て、不思議なものだね、日常生活なら手の掛からない気楽な方がいいと思うのだろうが、人生の意味付けとか生き甲斐を絡ませて考えるとなると、“けっこう真面目に手抜きをするのが憚ハバカられるのだね”。何となく気分としては、真面目な人生を送りたいという願望が出て来るのだよね。この欄を書いている私は私の人生を歩んでいるので、ここでは道すがらの助言者でしかないわけで、「気楽な評論に乗せられてはいかんよ」。アナタが「どんな人生を歩むのか」は、アナタ自身が決めればよく、道すがらのおじさんの出る幕でないのだからね。ただ、評論家の言えることは、「独身で行くなら、決心は不要、流れに任せればよい」、しかし、「結婚するならば、ハッキリとなにがしかの決心を持った方がよい」ということだねぇ。

五輪の経済効果を聞くアンケートをしても「東北の復興のアンケート」は忘れられている。経済人の思考力も衰微したものだ。ちょっと不謹慎を許して貰って言うと、東北の震災復興の儲けは、五輪の比ではないと思うのだけれども、頭がそちらには向かないようだ。実に嘆かわしい。

嘆かわしい理由、間もなく地震が来て三年になるけれど、震災復興が進まない。津波に流された跡地を見れば、「全ての商売が必要だ」と思われる。端的に解り易く書くと、正に「全ての商売が必要とされている」のだ。とりわけ、土地の測量から、跡地利用のプランの策定が急がれ、その後の復興ビジネスが進まねば、草ぼうぼうの土地が拡がるばかりである。そこでアベノミクスに無い知恵を提案したい。

国費を投入して、JR常磐線と国道6号線を原発を迂回して新規に建設し、元の鉄道に、道に繋ぐのである。残念ながら、原発周辺は向こう何十年も人の住めない土地になってしまったのだ。そのことを真正面から受け止めて、「ダメなものはダメ」とある種諦めて、その代替策を考えなければならない。

そして今、JR常磐線と国道6号線は、原発事故で途中が通れなくなっている。向こう何十年も元の経路での再開は不可能であろう。でも、復興のためには「物流が要る」。例えば、南相馬は、とてもアクセスの悪い土地になってしまった。福島からバスしかなく、県道12号線は、2車線の山越え道だ。大型トレーラーが、うんとこさと坂道を登っていれば、時速20キロ程度になり、追い越しも出来ない。これじゃ、復興もはかどらない。

話は簡単だ。復興のスピードアップのためにも、JR常磐線と国道6号線を山並みの西側に新設して、旧のJR線と国道に繋ぐことを「政治判断で急いで決め、すぐさま建設に乗り出すべきなのだ」。具体的には、JRは、「磐越東線のオガワゴウ駅でもエダ駅でもいい」その辺りから分岐して、国道399号線の傍に鉄路を築いてしまうことである。道路に関しても、この工事に併行して399号線を拡幅するか、JRに併行して新規に道路を造ってしまうのである。途中適当なところで、山にトンネルを掘り、元の常磐線の原ノ町駅と6号線に接続するのである。この工事、今議論に昇らなくても、その内に必ず実行することになると思われる。そらそうだろう。今のままでは不便だし復興の足を引っ張るばかりだからである。知事さん・市長さん・町長さん・村長さんは、「どうぞ、連名で陳情して頂戴」。

鉄道の輸送力は大きいし、東京方面からの物資の搬入はこれから莫大な量発生するので、今の道路だけの輸送では遅々として復興が進まないと思われる。

ここは、政治の英断が必要なところと思われる。

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