研究は競争。教育は、サービス精神で

最近、物理学を専門とされている人達と、教育に関する話をする機会があり、教育畑の者としては当たり前の話を聞いていただいた。その後メールでもやり取りがあり、両者の考え方の違いが際立つたので、私としても大いに勉強させていただけた。それで、その時の議論をベースに、FD研究なりFD活動なりについて感じたことを書いてみたい。

どの研究分野でも同じと思われるが、「研究実績は、早い者勝ち」である。幾ら素晴らしいことを考えていたとしても、同じ内容を先に発表されてしまっては、負けである。それ故、同業者には手の内が解るような話はしないし、「敵に塩を送るような親切心は起こさないのが鉄則になる」。それは、競争だから仕方のないことでもある。
それに反して、研究でない教育の土俵では、議論の相手に「なるべく難しくないように、すんなり理解出来るような配慮が払われる」。即ち、職業としての教師は、解り易く教えてやる努力を自動的にするわけである。それが学習者本人のために「良いのか・悪いのか」は、ここでは不問にしての話である。教師の関わる多くの場面では、人間としての基礎知識であったり、専門外の教養としての知識を与えるような場面が多いからである。そのため、教師の職業的習慣として、学習者に「効率的な理解」を得させるための学習ルートを選ぶように成っていると言える(今時、こんな熱心な教師は貴重品なのでしょうが)。

物理を専門にする先生方は、ごく自動的に「研究者」という性格が前面にでていたため、「学生時代に物理を学んだだけ程度の私(授業研究者であっても物理の素人)に」、語られる内容が難しすぎたのである。私の方は当然ながら、質問するし、もっと解るように言って下さいと要望するわけで、一部の先生は「そこで面食らわれた」と想像できる。“そんなことは、お前が勉強して、議論に参加するのが仁義だろうがと”。おっとどっこい、「それは、物理を専攻する学生さん達に求めるところでしょう。こちとら、素人でそんな難しいことを言われても、“解るわけがないでしょう”。遠慮もせずに切り返したもんだから」、そこで一挙に「教える」ということの問題が吹き出たのでした。

その顛末を一言で解るように書けば、タイトルにしたように、「研究は、競争。教育は、サービス精神で」ということろに落ち着くものと言える。そして、私の感覚で言えば、大学教員の殆ど総ての人は、「研究者でありつつ、教育者でもある」わけで、一人の人間が、往々矛盾する二つの局面に身を置いている。そして、その現実を如何に認識し、いかに対処していくかということについて、自分なりに解答を出して、実際に対処して学生指導なり、研究の競争に参加しなくては成らないのである。

こんなことは、冷静に考えれば、当然のことで議論に値しない問題だと言われてしまうくらいの問題なのだろうが、FDの問題(教育改善)としては、一種象徴的な問題点だと思われる。研究重点の大学か、片や教育重点の大学かで、問題の出方の趣は違ってくると思われるが、教員側にとっては、どちらも同じ二つの局面での問題なのである。そして、FD・教育改善にとっては、言うまでもないぐらい明白に「サービス精神で教育に当たってくださいよ」という地点が、落とし所なのである。どの大学にあっても、ここはFD活動での重要な落とし所なのである。教育改善の局面で、先生方のともすれば「専門研究への傾斜に対して、学生へのサービス精神を忘れないでくださいよ」と言いたいところなのである。

FD・教育改善に絡んで、この問題について強調しておきたい点がある。それは、大学教員は、みんな研究と教育の二つの場面を意識して、「働き分け」をしなければいけないということである。“お客さんに近い学生達の授業”では、当然のことながら「サービス精神を発揮した教育重点の講義をしなければならない」のである。他方、研究面でしごいた方がよい授業では、「時間も掛けて、面倒見よく、しかし、甘やかすことなく厳しい授業」をして行かねばならないのである。「働き分け」は、正味この味付けの問題なのである。サービス精神で「甘く美味しい」味付けにするか、厳しい味にするかである。

その点に関して、FD・教育改善上で重要なポイントがある。それは、厳しい表現で失礼だが、「手抜きの授業をしてきたかどうか」ということである。踏み込んで言うと、お客さん学生に対して、「それなりの努力をして、解らせる努力をしてきたかどうか」ということである。大学全入時代、学力の低い学生が増えてきた今日、大学教員の大変さを身に染みて理解しているが、“いい加減に単位を与えている教員も結構多い”感じがする。肝心なことは、「大学教員」という矜持が有るか無いかである。「手抜き授業」は、FD・教育改善活動としてはいただけない。弁解の余地無しである。でも、これは本人にとって微妙な問題である。手抜きなのか、ほどほどやって来たと思うかの「差」である。でも、この差を、本人がどう受け止めるかが問題で、その地点にFD・教育改善の問題点が落ちているかも知れないのである。

私は「大昔、学生時代に教え惜しみをした教員」に出くわしたことがある。私は闘争世代の人間であるから、その先生に親しげに声を掛けたことを憶えている。「先生、××の本には、スンナリと解り易く書いてある。先生の授業は、わざわざ難しく教えているのと違いますか」と。まだ、牧歌的な教員と学生の人間関係が残っていた頃の、良き「苦い」思い出である。今の学生は、もっとシビアーでストレートだと思われる。授業評価(期末の1回だけの評価は信頼性がないのだが)に厳しい点を付けてくる学生の心情を思った時、多少の反省を感じるなら、それはそれで、教員としてはその評価を甘んじて受けて、感謝したいところである。

投稿日 2009.9.23

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