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投稿日 2015.11.20

「省エネ・インバーター」などという広告が出ていますが、インバーターの働きを正しく知っている人は、まだ少ないです。そこで、インバーターと省エネの関連性を理解しましょう。
そうは言っても、納得できる説明をしようとすれば、かなり遠回りする必要があり、その分説明に時間が掛かりますので、スコンと落ちるような説明になかなか出会えないのではないでしょうか。そこで、環境問題への関心が高まっている現在、インバーターと省エネの結びつきをキチンと解説してみようと思います。

はじまり、はじまり

始まりは、モーターの話しからになります。インバーターは、モーターと組み合わせて使用する機器だからです。我々の身近には「各種のモーター」がうじゃうじゃ有ります(モーターは、電動機とも言います)。気にしてないので、うそのように思われますが、本当です。ナゼなら、ボタンを押して動く物の多くには、モーターが使われています。近付くだけで開くドアーなどにも当然ながら使われています。動く機械の背後には、先ず間違いなくモーターが存在するのです。
そして、モーターを大別すると「直流モーター」と「交流モーター」に分けられます。学校で勉強するモーターは、殆ど「直流モーター」ですが、家電製品の半数くらいでは「交流モーター」が使われています。そして、「直流」は、乾電池などから取り出せる電流で、流れる方向が一定のものを言います。それに対して、「交流」は、電圧のプラス・マイナスが激しく交替し、結果的に電流の流れる方向が激しく入れ替わります。即ち、直流モーターは、流れる方向一定の電流で回転し、交流モーターは、電流の流れる方向が激しく変わる電流で回るように作られていることになります。そしてモーターの作られている仕組みから両者の性質の違いを言い表せば、
◇直流モーター:磁力を使って、回るように作られている
◇(誘導)交流モーター:回転磁界に引き擦られて、金属体が追随 して回っている(基本は、アラゴの円板)
と言えます。それで交流モーターの要点は、「回転磁界任せ」にあるわけで、解り易く表現すれば、「主体的に回る仕組みを持っていないモーター」だと言えるわけです。

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なぜなら、「アラゴ(人名)の円板」というものは、金属の円板をひもで吊して、その円板の下で永久磁石を回せば、磁石で引かれたわけでないのに、円板が磁石の回る方向に付いて回ったのです。この現象をアラゴが発見したのです。この円板の考え方を応用して作られたモーターが交流モーターになります。そのため、「金属円板(実際は円筒形になる)に回転軸を取り付けただけの簡単な構造」のモーターになります。

回転部分は、「ただの円板」でよいわけですが、回転磁界を作り出す仕組みが次のミソになります。それでまず磁界について説明しますと、「磁界」とは、もしも永久磁石をその空間に持ち込めば、磁石の極が引かれたり反発されたり、回転させられたりする“磁石に影響力を持っている空間”のことです。この空間は、永久磁石やコイルで作られる電磁石の周囲に自動的に作り出される性質の空間です。要は、磁界に入れば、永久磁石や鉄などが引かれたり回転したりする空間ということです。
静止状態の磁界中では、永久磁石や鉄などは、持ち込んだ直後に磁力を受けて、ある方向に向くことになりますが、その方向に向いてしまえば、それで止まってしまいます。即ち、磁界は、永久磁石や鉄などを所定の方向に向かせて、一件落着になるわけです。これでは回り続けませんから、モーターとするためには次の工夫として、磁界を回転させる方法を考えるわけです。

この工夫はなかなかの難問に思えるのですが、「うまい具合に、回る磁界」が、身の回りに在ったのです。それは、電気を起こす発電過程そのものの中に在ったのてした。家庭に工場に送り届けられている電気は、発電機で作り出された「交流電気」ですが、そもそも発電機の仕組みは、外周に置いたコイルの中心部分で、強力な永久磁石を外からのエネルギーで回転させるようにして発電しているのです。

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そして発電の原理は、コイルの周囲で磁界が変化をすれば、その変化を打ち消すような電流を作り出すというコイルの性質を応用しているのです。強力磁石を回せば、正に「強力に磁界を変化させることになりますから」、傍のコイルがその磁界を打ち消すために電流を作り出してくれるわけです。それで、実際はそのコイルを3対、120度ずつずらして設置し、中心部で永久磁石をまわして、発電しているわけです。回転数は、東日本では1秒間に50回、西日本では60回回ります(50サイクル・60サイクル)。中心部の永久磁石が回る様子が、まさに周囲に置いた3対のコイルに刻々と反映されて、その瞬間の電流が発電されているわけです。即ち、発電機は、「永久磁石を回して、コイルに電流を作らせていた」わけです。

この事実をしばし冷静に成って考えれば、“発電機の中に回転磁界が出来ていた”ことに気が付くでしょう。そうだとすれば、発電機の中で作られた回転磁界を手元のモーターの内部で再現できないかを考えない手はないでしょう。
《このように順番に話を進めると頭の中もスッキリと且つ理屈の上でもクリヤーに理解出来ていくでしょう。難しくないでしょう。これが、私の専門「授業研究」の手法なのです》

ここで登場するのが「3相交流」という“動力線”と通称されている電気です。この電流は、現在の電気事情では「最も基本になるもの」で、発電所から送電線・配電線を経由して200Vの「動力用電源」を供給しています。普段見かける電柱では、地上より高い所にこの電線が3本並んで引かれています(低いところの2本は100Vです)。3相交流では、3本の電線で1セットです。送電線では、片側の3本がペアーの場合が多いです。この1対3本の電線は、発電機からモーターまで、3本で1つの電気として、遠路はるばる送られてきます。そして、3相交流モーターに3本を接続すると、たちまちモーターは回転を始めます。不思議なことに、3本の内2本の電線を入れ替えて繋ぐと「モーターの回転が逆になります」。それでは、3相交流の仕組みを考えましょう。
3対のコイルに生じた電流は、好都合なことに3本の電線で送れることが解り、動力を必要とする場所まで届けられます。そして、その電流の受け手になる3相交流モーターは、発電機の構造と対応するように、120度ずつずらした3対のコイルを周囲に配置しています。コイルだけを考えれば、「全く発電機と同じ構造」になります。そこに、発電機のコイルで作られた電流が流れることになります。どのようなことになりますでしょうか。発電機の永久磁石の回転から作り出される電流は、回転とピッタリ合った電流を各コイルに作り出し、各々のコイルにとっては、基準に考えているコイルの120度・240度違いで同じ変化を繰り返します。直感的に解り易く書けば、「モーターの3対のコイルの内側に、発電機の永久磁石の回転で作り出された“磁界”の様子が再現される」ことになるわけです。なんと好都合に、「送り届けられてきた3相交流をモーターにそれぞれ繋ぐだけで」、ウソのように理想的な「回転磁界」が作り出されるというわけなのです。難しそうに思えた「回転磁界」が、全く簡単にスンナリと作り出せた訳なのです。
単相(電線2本の交流)モーターでの回転磁界の説明は省略。

ここまで来たら、交流モーターは、ほぼ出来たも同じです。回転磁界が作り出せれば、その回転磁界に引きずられて回るような円板(円筒)を作るだけでよいからです。回転部分は、単なる円板(円筒)でよく、電流を流すような複雑な仕組みは本来不要なので、構造は単純です。そうはいっても交流モーターの回転理論はかなり複雑で、円筒が回転するには「円筒部分が、先ず回転磁界で発電し、次の段階では、今発電した電流と周囲に在る磁界の作用でモーターを形成する」という二段階で、“モーターとして回転する”わけなのです。

ここまで来て、やっと回転磁界に引き擦られて回転する交流モーターの姿がイメージ出来たと思われます。それでは、いよいよインバーターと省エネの話にはいるわけです。
交流モーターには、構造が単純で、回転に伴って摩耗する部分が無いという大きなメリットがあります。しかし、「回転磁界に引きずられて回転する」という宿命が付きまとい、“モーターでありながら、回転数を自由にコントロールできない”という欠点があります。この欠点は、長い間克服困難な課題でした。理由はお解りの通り、発電機の回転数に同期して回転するからです。即ち、交流モーターの回転を制御しようとすれば、「発電機の回転数を変化させる」以外になく、それは出来ない相談ですから、交流モーターは、これまでは定速回転が当たり前だったのです。

この難しい問題に解決の突破口を提供したのは、「進んだコンピューターと半導体技術」でした。それらの技術をベースに交流電源の周波数を自在に変えられる「周波数変換機」というものを作り出すことに成功したのです。それこそが、「インバーター」なのです。インバーターの日本語は、原理的には「逆変換装置」とされていますが、ここでは狭義に考えて周波数変換機です。インバーターの動作の説明は省略しますが、発電機の周波数に関わらず、交流電源の周波数を自在に変えて、モーターに必要な回転をさせるための装置が出来たということになります。即ち、周波数変換機を仲立ちにすれば、交流モーターの回転数を変化させられる(制御可能)ことになったわけです。そのことが解れば、周波数変換機付きのエアコンで考えてみましょう。室温が希望の温度に大きく離れていたら、そのことをセンサーがキャッチして、制御用のマイコンがインバーターに高い周波数の交流電源を作り出すように指令します。するとインバーターは、周波数を大きくしてモーターに電流を供給します。その結果、交流モーターは高速回転を始めます。すると定速運転に比べてうんとパワフルな運転になり、短時間で設定温度にすることが出来るわけです。即ち、インバーターはこの場合「交流モーターの回転速度のコントローラ」であるわけです。(補足:IHコンロでは、周波数を大きくすると発熱量を大きくできますので、この場合は「火力調節器」になります)
インバーター・周波数変換機の役目は、交流モーターの回転制御であったわけです。この機能は、既に新幹線車両にも電気自動車にも利用されています。インバーターは今後ますます重要な技術になるでしょう。

最後に、インバーターと「省エネ」の関係を説明しておきましょう。この説明もまた、あっと驚くのではないでしようか。
交流モーターとインバーターの関係が解ったところで、エアコンや冷蔵庫にインバーター内蔵と大きく表示されていることの「省エネの側面から見た意味」を考えておきましょう。
理屈は簡単なのですが、知っている人はまだ少ないですね。
エアコンや冷蔵庫にインバーターを付けると大きな省エネ効果が得られるのです。そのエッセンスは、交流モーターの回転を制御して、「適当な回転数で、止めないで運転すること」にあります。インバーターで回転を制御することは解りましたね。解れば、回転制御で低速運転も出来るということが疑問なく解りますね。でも、省エネに関しては、その先「止めないで回し続ける」ことにあるのです。
これも解ってしまえば簡単なことなのですが、“殆どのモーターで、回転を始める時の電力消費がうんと大きくなるのです”。止まった状態から、回り始めるとき、大電流が一機に流れます。回転が上がれば、「逆起電力(モーターは回り始めると発電機の性質を持つため)」というものが働いて、流れる電流は減少します。回っていれば、そう大きな電力を必要としないのです。しかし、始動時は、うんと電力を食うのです。インバーターの無かった時は、モーターを回しては止め、回しては止めを繰り返すしかなかったのですが、インバーターという機器が出来てからは、所定の温度に成った後も、必要な回転数で回し続ける運転が出来るように成ったことで、「止めないことで、省エネ運転」が出来るように成ったのです。省エネと言えば、スイッチをこまめに消すという当たり前の考え方では、理解できない省エネの場面が出来てきたのです。そんなへそ曲がりな省エネもあることを新しい常識に加えてください。
ウソのような本当の話です。30分程度の外出では、エアコンを止めない方がよいのです。快適な温度を維持してくれると同時に、余り大きな電力を使ってないからです。電気冷蔵庫でも同じです。年中回し続ける運転法を採っているのです。これで、インバーターと省エネ運転の関係がやっと解って貰えたと思います。

お読み下さってありがとうございます。

投稿日 2015.11.20

学ぶ気のない学生の大量発生⇒日本の大学の本質的危機 = 根本矛盾

期待すべき方向性で動いている気になる大学が数校在るけれど、ホームページの全般的動向の雰囲気から感じられるのは、「総じてFD関係の情報が少なくなっていると同時に、画面の更新が滞りがちのサイトが増えている」ように思われる。更新されているとしても、例年通りの内容をコピーしたに近く、日付だけ新しくなっているような感じのサイトが増えている。このような傾向のFD活動を名付けて「惰性のFD」と呼ぶことにする。法的に義務化されたからには、何なりかのFD活動を継続しなくてはならないので、そうなれば一番やり易いのは前例に倣うことで、ルーチンワークとして実行して行かざるを得ない状況の大学が増えているということのようだ。

ああ、エライ事になってきた。大学の危機がそこまで来た

本来のFD(20年前、1期の先生方がリードされている頃)は、こんな惰性の営みで続けるようなものと全く違っていて、「より質の高い大学をめざして」情熱を燃やして挑戦していたのではなかっただろうか。それが今日の姿に繋がってきたのだ。この間に大学数は200校増え、少子化で、誰でもが大学に入れる時代は、一層拍車をかけたのだった。そして、到達したFD活動の姿は、「惰性のFD」という格好になったということだろうか。この推移には、併行して大学の変化過程が反映している。よくよく分析する値打ちはあると思われる。FDが義務化されて(文科省としては、大学教育の質を高めようとしたわけだ)大学教育の質を上げることを要請されたことを知りつつも、多くの大学教員の“本音の行動”は、FD活動に前向きにならなかったと言えるのではないだろうか。本来なら、歓迎すべきことのように思えるのだけれど、そうは成らなかった。なぜなのか。

10年前くらいにFD運動は一つの盛り上がりを見せた。京大での高等教育のミーティング参加者がどんどん増えて、最高は700人位まで増えたように記憶している。この頃は、学生数の劇的な減少が予測されていて、「魅力のない大学は、入学生を確保できない」という経営面での切羽詰まった状況が、FD運動を支えたと言い得るように思う。よって、この頃のFD運動は「倒産回避のFD」と名付けるか。その頃日本の大学数は、475校くらいだった(大学の新増設を文科省は、制限していた)。大学の倒産時代と宣伝されていたけれど、実際の推移を見てみれば、経営危機に陥った大学もあったが、「何とか経営していける大学」が大半であったため、「倒産回避のFD」は急速に萎んでいったのであった。何とか倒産は免れたという気持ちが学内に漂えば、「無理をしつつもFDに注力していた教員達」は、安堵感と共に興味を失っていくのは想像に難くない。

その後、文科省は大学の新増設の基準を緩和して、その代わり経営責任は理事会でシッカリ担って行きなさいやと(国立大学法人化もある)いうことになり、今やネット大学なども設立されてきて、750校くらいに増えているらしい。

この辺りから、FD研究会の参加者数は徐々に減りだした。自主的にFD運動に入ってきた人達は、続けるか、引き上げるかの選択をした。その後も続けている人達の多くは、自分の大学でFD運動の世話方かリーダー役を担っている人達だった。FDに関心を向けさせるためにどうするかを考えるわけだけれど、時の情勢はFDの波の引き潮にあった。潮の流れを止めて、再び上げ潮にするには、学長なり、理事長なりの上からの強い働きかけでもなければ無理な情勢だった(本来のFDに興味関心を引き付ける力が無かったことの総括も大切なのだが)。FDを動かす多少の義務感なり、責任感なりはあっても、権限のない担当教員だけで「ボトムアップでFD運動を動かすには無理な情勢になっていた」。学内情勢も全国的な情勢も「笛吹けど踊らず」の情勢になっていた。

学内に影響力を及ぼせないとしても、役目上、FDを推進している顔をしなければならない。そうなれば、無い知恵を絞り出してでも、「こんな試みをすれば、FDに有効でないだろうか」といった研究発表をすることになるのは必然である。この研究発表会は、次第に「論文稼ぎのFD」に変質していくのは仕方がない。
現在、FDの研究をしたり、意見交換をしている場では、多く「論文稼ぎのFD」に成ってきている。そこまでの研究心が出せないところでは、残念ながら「惰性のFD」になってしまっている。いずれにしても今は、惰性のFDで、研究発表をして、業績点を稼いでいる。

2000年くらいから後のFD運動を私の独断と偏見で書けば、おおむねこんなようになる。「倒産回避のFD⇒論文稼ぎのFD⇒惰性のFD」と推移してきた。この推移は、ほぼ正しいと思うのであるが、読者の考えは如何だろう。なぜ日本では、「本来のFD」が追求されなかったのだろうか。
外国の事情は殆ど知らないけれど、「FD」=Faculty Development は、決して「倒産回避」などという低次元での考え方ではないはずだ。この考え方は欧米由来のものだから、推測するに「競争優位」の考え方をベースにしているものと思われる。何とか生き延びるという消極的なものではなく、「トップ大学になるためのたゆみない挑戦」と考えられていたと思われる。“一歩一歩着実に教育を改善し、大学教育の質を向上させていく”ための運動なのである。それが日本に輸入されて、「倒産回避のために」応用されるに及んで、FDの本質をスッカリ潰してしまったのである。

本来なら、FDは学生のレベルアップのためのもの(大学の評価アップのもの)

「そんなの解っている」長々と解りきった話を書くなと叱られそうだが、FD運動がどのような経過を辿ったかを押さえておくことはだいじなのである。なぜなら、現在の日本の大学は「矛盾の極にあると言える」からである。そもそもFDの必要性を訴えられたFD1期生の先生方は、(国際的に低くしか評価されていない日本の大学を内容的に高いレベルに引き上げるべきだと考えられて)大学教育のレベルアップを目指されたことは間違いないのである。しかるに、FDは変質して「倒産回避のFD」が唯一盛り上がって、何とか倒産せずに経営ができると思えた頃からは、FD運動は、急速にボシャってしまうのである。

日本の大学教員のこの単純さ、思想の浅さが「FD運動のここ15年に象徴されている」と言えないか。早い話、“月給が貰えさえしたらよい”というのである。この次元に留まる限り、FD運動は「本来の道」を歩むことは出来ないだろう。どうもここに、大学を取り巻く数々の矛盾の源泉があるように思われる。その主要なものを上げてみる。

・世界の優秀大学の100位に入る大学が、3校くらい(学問レベルが低いとされる)
・勉強する気がない学生⇒卒業資格の判定が甘い(大卒資格に裏付けがない)
・(日本の)大学の存在意義が疑われてきている⇒根本的な矛盾になる
・大学教員の「教育」に対する熱意が弱い⇒「優秀な教育指導に対する報償がない」
・学問的意識の低下は、大学教員自身の気の緩みを誘発する⇒手抜き授業
・大学院の学問レベルの低下が嘆かわしい(不適格院生の進学を容認している)⇒オーバーマスター・オーバードクターの就職難(実力不足。即戦力になり得ない)⇒実力不足の新規大学教員になる⇒学問レベルの低下になる悪循環
・大学卒業とは名ばかりの卒業生が増えてしまった(大学卒業の学歴に実質的意味が伴わない)

大学教育は「より良き社会人の養成」が目的である
果たして「今の大学が、それに取り組んでいるか」

建前論を展開しても、運動は起きない。社会的動きに連動して「教育の改革(=大学改革)運動」に結び付けていかねばならぬ

日本の大学が、現在抱えている最大の矛盾は、学問と切り離された卒業証書製造施設に成り下がったことにある。大学が学問の府でなくなりかけているのである。この現状を素直に認めるならば、「大学再生のために何としてもしなければならないこと」は、卒業証書の大量発行を止めて、卒業生の能力的保証に責任を持ち「卒業資格の判定を厳しくすること」である。言い換えると、「無試験入学に対して、卒業のハードルを高くする(米国の大学に倣った「卒業生の品質管理手法」の導入を)改革をせよということである。

即ち、卒業しにくい大学制度を始めよということである。
そのためには、文科省の補助金制度を改革し、学生の人数による配分を止めて、卒業基準を高くする大学(優秀な卒業生の人数に対する補助へ)への補助金に変質していくことである。

これらの矛盾に気付き「矛盾を解消するための営み」を始めるならば、“それは正にFD運動を正しく進めること”に直結すると思われる。

「輸入のFD」に心情的に反発を感じるなら、日本の状況をベースにした「大学教育の改革運動」が考えられ、提案される必要があると思われるのであるが。
そういう方向性をもって改革運動を起こしつつある大学よ、出でよ!

投稿日 2012.8.19

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