FD・授業研究

FDは、フロッピーディスクじゃないよ。Faculty Development という英語の頭文字で、Faculty(学部) Development(開発)といった意味でしょう。私の個人的理解では、教員個人のレベルでは、「授業改善」、大学の組織体としては、大学としての「組織的な教育の質の向上運動」ととらえています。だけど、日本の現状としては、FDに取り組んでいる先生でも「授業改善」の意味で捉えている人が多く、組織体としてのFDまで関心を持たれている人は少数だと思います。これまで、学生の勉強意欲の高くないことをイイコトニ、授業の内容がお粗末なまま、同じ授業を繰り返し教えてきた先生もかなり居られるわけです。そんな先生は是非目覚めて欲しいのですが、世の中の常でFDの必要な方が、却って不熱心でこまるわけです。
私は、これまでの研究領域の行き掛かり上、自然とFD活動に入ってしまいましたが、教育状況のお粗末さ加減は、旧態依然としている大学が大いに反省して頑張らないとダメだと感じます。私立は、やってる内容に開きが大きいようですが、最終的に倒産という避けられない事態が待っていますから、どこかで自浄作用が働くと楽観しています。それよりも質が悪いのは、中堅以下の国公立の大学ではないでしょうか。非常勤で行かしてもらっているところなども、大学全体としては、教育も研究も低調に思えます。小学校から大学まで、トップグループ校は例外としても、公教育の無責任、統治能力の無さは、目を覆いたくなる現状じゃないでしょうか。日本の「お上」信仰から考えれば、旧国立大学がしっかりしないと、小学校までの義務教育は立て直しが難しいのではないですか。
私は、数年前から、この考えの延長として、「教育こそ、民営化しないと立ち直れない」と本気で思うようになりました。阿部教育再生会議もたぶん実効をあげられないでしょうから、まだまだ教育状況はぎくしゃくしますね。
だからこそ、FDを活発にしないといけないのですが、“もっと状況が悪くならないと”、授業内容を良くしなければとは思わないのではないですか。本気にやるなら、FDへの参加で勤務評価を変え、もっとドライに「給料にモロに反映させる」ことを考えるべきでしょう。

FD(Faculty Development )という用語は、ようやく国内的にも認知されてきましたが、今年(07年)の京都大学高等教育研究開発推進センター主催の大学教育研究フォーラムで、「教育改善」という用語が使われ、筆者には「聞いた瞬間、あれっという違和感を憶え、しばらく後に、その用語法なかなか良いなぁ」と感じさせられた。そのことに関して、センターの松下先生は、FDという言葉が使われる以前から日本にあった教育改善の動きを継承する意味合いを含んで、その言葉を使う方が、以前から頑張って来られた先生方には自然にFDに参加していただけるように思われるので(意訳して)と言われた。そして筆者としても、フロッピーディスクと紛らわしく、定義も定かでない「FD」という言葉よりも、意味内容が明確に伝わる「教育改善」や「授業改善」という漢字の並びの方が、気持ちの上でしっくりくるように感じる。しかも、「教育改善」は、組織として取り組み“教育全体を良くして行く”活動を意味を表し、「授業改善」は、個々の教師が“より良い授業”を追求する営みを自然に表していると思われるので、表意文字としての特性も生きて、FDという表現の違和感も解消できると思われて歓迎である。この後は、FDという言葉と併行して、「教育改善」や「授業改善」を使っていくのが、まだFD活動に積極的に関与していただけていない先生方に良い印象を持ってもらえるように思われる。

トップにもどる