FD・授業研究

ご案内を頂いたので、09.5.29日、福井県学習コミュニティ推進協議会(略称:F−LECCS)の第二回シンポジュームに参加させていただきました。そこで、見出しの言葉が紹介されました。Power Pointの画面で大写しになりました。咄嗟にメモしきれなくて、画面を戻していただいて写しました。(その後、小田先生にネツトで紹介してよろしいですかとお断りをしまして、ご了解の上で書いています。念のため)
最初、ごく短時間画面が写されたのですが、文字がパッと目に飛び込んで来たときに、この表現とても面白い。カツコイイと直感しました。私にとって、FDという得体の知れない言葉に「何か良いイメージ付けが出来ないものか」といつも頭の片隅で思っていたものですから、【これ、日本のFDという言葉の定義付けにちょうどいい】と感じたのでした。それは、小田先生がしっかりとお考え下さった後の産物だからでしょう。
これ以前のFDに対する私のコメントは、FDの実際は、「個人の営み」と「組織での営み」が両方ありますよ。それらを区別しないで一緒くたにして(混ぜてしまって)FDというものを議論するならば、「FDは、ボトムアップで行かないとダメ」とか反対に「FDは、トップダウンでいかないと成功しない」とかの話が出て錯綜し、「議論のための議論」をしているような雰囲気さえ醸し出されるのが避けられませんよというものでした。それは、現在の「FD」という用語の使い方では、「FD」という日本語の名詞が出来たような感じで、内容の規定が曖昧なままの“雰囲気用語?”になっているように思われました。この用語法の現状を何とかしないとダメだと思っていたところに、今般福井でこの言葉に接したわけです。

日本語でないFDが、あたかも日本語の特定な名詞のように使われてきている現状は、否定すべくも無く存在しているわけで、そして「FD」という言葉が、「今後の日本の大学の運営・経営に大きな影響を与えるであろうという予測の基で」、「FD」をもっと積極的な面で受け止めて貰える言葉に「進化」させないと「FD活動」が広がらないと危惧されるわけです。それでなくても、FDに関心を持っていただきたい「まだ無関心な先生方」がたくさん居られる現状を如何に打破するかが喫緊の課題なわけです。そのためにも、どう見ても英語の「FD」という用語で「大学教育のレベルアップ」を象徴させようとするには、日本文化の中で違和感が残るのは如何ともできない事実であります。もしも、このままFDという言葉を使い続けるのであれば、「最低限、意味のハッキリしない現状を改める必要はある」と思われるわけです。その時、暫定的にでも考慮すべきは、「日本語としての文脈で語られる“FD”という用語の実際的・現実的な定義付けが必要になる」と思うのであります。この時点で、先程の小田先生の「米国の文化にワンクッションを置いたような定義」がそれなりに意味があるのではないかと直感したわけです。

大阪へ帰る車中でも、あれこれとこの一文を考え続けました。そして、小田先生のお考えが、しみじみと迫ってきまして、「これはいい」と再度納得しました。現在の日本のFD活動の現状を踏まえて、尚かつ、広い視野で考えたならば、“日本語のFD”という言葉に対する「当面の意味付けにふさわしいように」思われるのでした。“日本語のFD”=「トータルな大学教育のレベルアップ」⇒それをカッコヨク言い換えて【校風を創造し、具現化する装置である】とするアイデアなわけです。これで、「FD」のイメージを少し変えていただいて、今迄FDに躊躇されていた先生方に腰を上げていただけるようにならないものでしょうかね。“我が大学の校風を誇らしいものに具体的に作り出していく活動なんだ”と思っていただけると幸いではないでしょうか。今の訳の解らないFDという言葉より「余程、親しみと現実感を持ってもらえる」ように思うのですが。さらにだめ押ししておきますと、「大学教育のレベルアップ」という表現では、何か人ごとのようだし情緒がないでしょう。「校風を創る」なんて表現にすると、なんだかロマンが漂ってくるのではないですか。本当のところ、FD活動は、ロマンを持って進める活動に違いないと思うのです。だったら、ロマンを感じさせないとね。

FDは、最終的に個人の授業改善活動として完結するのでしょうが、その個々人は「教員組織の各構成員」であり、“組織的なFD活動を前提とするならば”、【個人の授業改善活動は、最終的に組織的な方向性を内包するわけで】、“それは正しく、誇らしい校風を創造する活動として結実するものでしょう”。時の経過と共に、また違った定義が将来提案されてくることもあるでしょうが、私個人は、現時点では小田先生の提示されたこの「FDの定義に飛び乗りたいですね」。なぜなら、最後の畳み込みの工夫がまた凄いからです。それは、観念的な思いだけのFDでは、ダメだよと畳み込まれているからです。【目に見える形での成果が実感できてこそ】という但し書きが付いてくるのですから、私にはたまりませんね。なぜかと言えば、それは前回のコメントに関係してきます。前回私は、「FDの効果の研究について」書きましたが、私自身の体験から言いますと、「自分の授業が進化・向上してくると、学生とのやり取りがどんどん変わってくるのです」。その効果は、目に見えますし、実感できるのです。それを数値で出そうという試みは有ってもいいでしょうが、そんな顕著な変化を微妙な数字に置き換えねばならないものなのでしょうかねぇ。
但し、この変化は、そう短期的に出るものじゃないですよ。それ相当の研鑽を積んでいって数年経てば、「目に見えて変容しているもの」です。正味、その変容に自分自身で気付かない方がおかしいでしょうね。即ち、「有効なFD活動」を続けていけば、「ある種顕著な変容が起きてくる」のが予想されます。個人の授業として、学部や大学全体に醸し出す雰囲気にも顕著に出て来ます。真に歴史のある大学の良さとは、こういったものの集積にあるのだと思うのです。まさに「校風として具現化する」のです。具現化してこそ、ホンマものです。理屈をこねるだけでは、変化は出てこないでしょうね。ここに、「具現化」と言葉を入れられたのが、念には念を入れられたことを物語っています。

本日は、福井で勉強させていただいたことをアップすると同時に、「現在それらしい定義無しで使われている“FD”なる用語に関して、当面の日本語的定義を小田先生ご提案の【FDは、校風を創造し、具現化する装置である】と定義してみては如何でしょうと」ネットを通じて問題提起させていただいたことといたします。

(有)日下教育研究所 所長 日下 和信

フロッピーディスクならぬ「FD」という用語で、主として大学での授業改善が議論されてから、かれこれ15年になろうとしている。そしてこの間、FD活動は、盛り上がったのか、盛り上がったと言えない程度に続いてきたのか、決めかねるところだが、省令として大学院でFD活動を義務化された今、気分としては「中だるみ」状態にあるように感じられる。では、ナゼそうなのか。この辺りの原因究明をしっかりしておく必要性を感じるのは私だけだろうか。
その辺のことに関して、私見を披露してみようと思う。独断と偏見が混じると思われるが、参考にしていただけるなら幸いである。

パソコンのフロッピーディスクの時代は過ぎつつあり、FDは大学関係者にFaculty Development の略称だと認知されつつあると思われるが、FD活動に自発的に参加する大学教職員は、そう増えていないのが現状ではないだろうか。多くの大学では、活動の裾野が広がらないのが現実の姿のように見受けられる。それはナゼなのか。
ストレートに言って、現在使われているFDという言葉のイメージが「胡散臭い」のではないだろうか。直感的に「どうも信用できない」という感じを与えているように思われる。それもそのはずで、FDという用語が米国直輸入の言葉として入ってきた頃のFD活動は、“大学の学問研究の質を上げなくてはならない”とか“解り易く教える努力をしなくてはいけない”と個人的に切実に思われていた先生方が活動の中心メンバーだった。これらの先生方にとって、FDと自らの学問研究への指向性は、ごく自然に一致していたため、「米国のFD活動」は、自分自身に大いに参考になったわけで、“違和感無く、スンナリと受け入れられた”わけである。

近年FD活動を始められた先生方も、この辺の情況を確と頭に留めていただきたい。即ち、初期の頃から活動された先生方は、平教員・管理職という立場を越えて、「教えるということに関して、より上手に教えたい」という共通の関心を持たれていたと言って良いと思う。即ち、当初のFD活動のベースは、「授業改善」に有ったわけである。ここの原点をしっかり覚えていて欲しい。

「FD の活動が始まった当初は、FDという物珍しい英語名の略称で呼ばれた活動も、内容的には“個々人の次元で授業改善する活動”であるという共通認識が自然と成立していたわけで、その時点では馴れない名前という以外には、さしたる違和感もなしにFD活動が議論されていったのであった。そして時を経て、現在に至って、義務化されてきて却って「ぎくしゃくしてきた」ようなのである。その根本的原因は、「FD」という言葉の持つ意味が多義化して来たためだと思われる。
今春の京大での「大学教育研究フォーラム」では、「FDの効果測定の云々」という問題まで論じられるようになり、私は、強い違和感を感じた。「FDの効果」ってどんなもの?、その時に使った用語としての「FD」は、果たしてどんな意味で用いられているのか?。そもそも定義されていない対象の何かを測定して論じようというのである。(この問題点を論じようとされる立場の人の狙いは推測できるが)「学生による授業評価の得点」を根拠に、数値の大小変化から(でも)「FDの効果」というものを数値で実証しようというのである。どこまで信憑性のある数値か不明の上に、さらなる統計処理を施して「何なりかの数値変化を導き出して」、“FD活動によって、こんな効果が出ました”と結論付けようというのである。これは、本当のところ「無茶ですよ」。「学生による授業評価」の多くの場合のデータで信憑性が疑問視されてきている流れの中で、このような強引な研究は無いでしょう。
こんな研究手法を認めていくならば、“ますますFDという用語の曖昧性が増し、いい加減さを内外に印象付けてしまうのではないでしようか”。この事例は、現在のFD研究の内包している問題点を端的に描き出してくれたように思われる。このような無限定な意味の膨張を許しているなら、「日本のFD」は早晩信用されなくなるでしょう。このようなFD研究の危険な体質を厳しく反省すると共に、「今正にしなければならない仕事」が見えてきたと申せましょう。
それは、「今、日本で普通に使われているFDという用語に、どのような意味を持たせるかを」関係者で検討し、出来るならば誤解のないような日本語表現での意味を確定し、広く広報すると同時に、“実のある議論が出来る環境”を作り出すことでしょう。そのために、私は、ここで一つの提案を試みることにする。

 ①「日本語のFD」には、明確に二つの意味がある。その1は、「個人レベルの問題として、授業改善に取り組む活動」であり、その2は、「大学等の組織的レベルの問題として、学問研究及び教育の質的向上に向けた(教育改善)活動」である
②「タイトル・看板以外ではFDという呼び方を使わない」。今や広まったFDという言葉であるが、内容の議論では使わないようにする

即ち、何を意味しているか不明になってしまった「FD」という用語に対して、2つの意味を持たせるということである。意味1は「(個人レベルでの)授業改善活動」、意味2は「組織的な教育改善活動」となる。これで何も困ることはないと思われるが、如何であろう。
こう約束するだけで、大きいメリットが得られる。FDに二つの側面があったことが、明示的に示されること。そして、授業改善は、元来個々人の教員が取り組む課題であり、それに対して組織的に取り組む活動を「教育改善活動」と呼び分けると、合理的で且つ便利だと思われるが、如何なものだろう。

−− 以上 −−

日下教育研究所 所長 日下 和信

2008年度は、多数のノーベル賞受賞者が出て、まことにおめでたい年でした。それは、まことに嬉しい出来事でしたが、トータルな日本の大学の情況は、表面のおめでたい成果とは裏腹に「悩み山積」の状態が相変わらず続いたと言うべきでしょうか。

私は、地理的近さと、これまでの繋がりから、京都大学の研究会に参加させていただくことが多いのですが、「日本全体での大学でのFD活動が順調に立ち上がって、成果を出してきた」とは言いにくい情況であると思っています。それで、現時点でのFD活動についてと、これからの展望に関して、個人的な考え方をまとめてみようと思いました。(それというのも、09年春に大阪キリスト教短期大学を退職します。だから京都大学での発表もこの春のが最後になると思います)。

端的に申して、現状の大学でのFD活動は“中だるみ状態”にあるように感じます。草創期からでは15年以上の取り組みで、関心のある教員は、それなりに自分自身の授業を見直し、良い授業を目指したわけですが、世の中しばしばそうであるように「授業改善に熱心になって貰わねばならない教員」が、相変わらずFDに無関心なわけです。そこが、何と言ってもネックで足並みが揃わないで、全体的な成果を上げにくい限界を作っています。
しかし、このように嘆いていては、これから先の展望も出て来ません。そして、それでは、FDを推進する立場の人達の責任逃れの言い分にもなってしまいます。その発想ではダメで、現状を如何に前に進めるかで対策を検討しなくてはいけません。即ち、「FDに関心を持ってくれない教員に、今後どのように働きかけるべきなのか」が問われているわけです。中だるみの原因は、この働き掛け方がハッキリしないという壁が立ちはだかっているためで、この壁を崩す具体的対処法が、今こそ必要とされているのです。

実は、この壁に関しては、授業研究を専門にしてきた人間には「自明の事柄」なのです。私は、無名の人間で、研究的にも大した成果を出していませんので、大学の先生方には、私の研究発表に本気で耳を傾けていただけなかったのですが、「この壁の乗り越え方」を研究発表のいの一番に発表し論文に書かせて貰っているののです。それは、京都大学の大学教育研究フォーラムのPDFに納められています(下のURLをクリックしてください)。
表題は、「FD研究:大学での授業検討会の進め方」
http://www.highedu.kyoto-u.ac.jp/edunet/archive_pdf/03.p82.kusa.pdf

というものです。そこに、FD活動に関心を寄せてくれない先生達に関心を持たせるための大切なノウハウとして、エッセンスを開示してあるのです。
解り易く言うと「貴重な時間を割いて授業検討会に参加して“お土産もなしに帰らせては”再び検討会に参加していただけないのです」。早い話、“授業検討会は、開く都度、授業改善に役立つ何かのお土産を持ち帰って頂くように”運営しないと参加者は続いてきてくれないのです。

授業研究を専門にしてきた人間は、この苦労を嫌というほど知り抜いているのです。検討会を企画する方の人間は、「参加する方の人間の心理を忘れがちですが、自分が参加する方の人間だった時のことを思い出すだけで納得されるでしょう」。小・中学校の先生方は、言わば授業が生命線に当たるわけでしょうが、大学の先生方は、ともすれば研究が生命線で、「研究が主で、授業は従」とお考えの人も多いはずです。特に、研究を重視する気風の強い大学では尚更のことでしょう。そんな環境で「授業検討会に出たけれど、殆ど得るところがなかったら」、次回からの参加は無いと思わなくては成りません。大学の先生方は、超お忙しい人が大半です。そんな先生にムダだったと感じさせた時間は、取り返しようもありません。「時間が無駄だと思わせるような検討会は、持つべきではありません」。忙しいということを口実にすることなく、なるべく周到な準備をして、出来れば「検討会の議論にお土産が作れないことさえ前提にして、配布する書類だけでもお土産に値するものを」用意するくらいの周到さが要ります余り回数はありませんが、私の参加した「大学での授業検討会で、お土産らしいものを貰った経験がありません」。その辺の配慮がなされていないというのが大学でのFD活動の実態なのです。それ故、授業検討会の開催者側は、その厳しい事情をハッキリと自覚して、生半可な授業研究会を開いてはいけません。

そのことに関して一言付け加えねばならないことがあります。特別変な人は例外でしょうが、大学では「授業は従」と言っても普通に授業をされている先生で、「全く授業に関心が無いという方はごく少ない」と思われます。例外的変人は除いて、普通の先生は、授業に関しても「評判が悪いよりは、良い方がいい」のです。この大学教員の心理も理解出来ますでしょう。だったら、“授業検討会に出席して、授業改善に役立つ知見が得られたら”、多くの先生方は参加されるようになると思われます。FDや授業研究の活動が広がって行くのに時間は掛かるでしょうが、「勉強になった・役だった」という噂が広がれば、次回は覗いてみるかなと思うものなのです。そのような心理的力学で、FD活動は、地道に広がっていくのです。生意気なようですが、教育学部で専門として授業研究をされているような先生が居られる大学は良いのですが、そのような先生の居られない大学では、「お土産を持ち帰っていただくような授業検討会」を実施するのはなかなか苦労の多いものですよ。手探りで、おまけに役に当たったから仕方なく思い付きで授業検討会をしていては、「周りの先生方をFDの輪の中に誘い込むことも出来ないでしょう」。FDを有効なものにするには、“毎回、お土産をもって帰ってもらえる有効な会をしなければなりません”。そこが、授業研究の組織論としてのエッセンスなのです。生意気ついでに書きますが、「有効な検討会の持ち方」は、手本を数回見て、体験すれば、やり方の一応のノウハウは、解ると思われます。そのノウハウが掴めたら、それを真似て、それぞれの大学の特殊性を加味して、独自の検討会を工夫して創り出して行かれるのがよいように思います。
私で良ければ、手当不要、交通費等の実費のみでアドバイスさせていただきますよ。最後が売り込みになって良くないのですが、ホント、我田引水でなしに30年それをやって来ましたので、「お土産作りのノウハウ」を是非とも伝授しておきたいのです。
このお土産作りが出来ないと検討会に来ていただける先生の数はなかなか増えません。「自分の授業を良くしたい」と思っておられる先生方は、自分の授業の欠点を知り、どうすれば克服できるかに最も関心をお持ちなのですから。このお土産作りが「検討会の最強運営ノウハウ」になるのです。
FD活動に関して、ご相談がありましたら、このアドレスにメールをください。
kel.kusaka(アットマーク)maia.eonet.ne.jp

餅は、餅屋というでしょう。私は、昔から自称「授業屋」なのです。

日下教育研究所 所長 日下 和信

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